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一覧 小田実さんとわたしNEW・「万物流転」――小田実さんのことNEW 歴史教科書・酒と鎮魂・放課後の校庭・屠蘇は口に甘し・あざなえる災害の中で 邯鄲の夢・ヒロシマへの道、ヒロシマからの道・相席は日本の誇り 硯友社と差別へのまなざし・平和運動の継承を誓う ・ 弾圧とテロ・加茂鶴は二合徳利で ニネベ・ふぁっくラメール・高畠通敏氏を悼む・キリスト新聞6月26日号望楼・ペンは剣よりも強し |
小田実さんとわたし
小田実さんが旅たった。覚悟はしていたが、政治的変動の真夜中というのがいかにも小田さんらしい。
つい最近、小田さんと出会うきっかけとなった45年前のテレビドラマのフィルムを作曲の高橋悠治さんと上映した。もしかして会場にきてくれるかと願ったが、夢はかなわなかった。 小田さんは世界旅行記『なんでもみてやろう』を発表した直後で、新米ディレクターだったわたしが電話して、ふたりで四日市までロケハンに行った。日本もわたしたちも経済成長の夢に満たされていた。ドラマは太陽に輝くコンビナートと土地をうばわれた農民を対置したものだった。そのあとわたしは、小田さんのように世界に行きたくて、放送局もやめた。2年後、ベトナムへアメリカ地上軍が上陸した。今度は、小田さんから電話がかかってきて、わたしは手づくりのデモに行った。それが日本で始めての、市民による反戦運動、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の発足だった。1965年4月である。 当時、平和運動は既成政党や労働組合の指導するものとされていた。それが、はじめてふつうの市民による運動がうまれたのは、小田さんを支えた哲学者の鶴見俊輔、作家仲間の開高健、それから学生運動や平和運動から来た吉川勇一さんたちの連合だった。しかしなんといっても、小田さんという自由な精神に魅了されたのだと思う。小田さんは、世界を股にかける行動力と知的理解力を示しながら、決して只の市民としての立場を捨てることなく、ベトナム戦争終結後は、阪神大震災の被害者の立場に立ち、また、最後には平和憲法を守る9条の会の呼びかけ人をつづけた。それは、かれが戦争末期大阪で体験した空襲の体験を忘れず、鳥の眼からではなく、逃げまどう人間の目から、戦争を考えつづけたからである。そういう視野は英訳された『玉砕』に見事に結実された。 アメリカ空母から戦争に反対する脱走兵が現われたときも、みなで力をあわせて国家権力を向こうに回してさまざまに知恵で対抗した。わたしも記者会見の映画を作り、またのちには小田さんと北爆下のハノイまで出かけたものである。 いちばん対立したのは東京都知事候補に推薦されたときであるが、二人が対立候補になりそうになり、とうてい彼と戦う気になれず、わたしは下りてしまった。 はじめてあったとき作家小田に目をつけたせいか、小田さんはわたしにとって、まず作家であり、旅の先達であり、遊び仲間でり、最後に市民運動家だった。小田さんもそういう付き合いを喜んだ。だからかれを市民運動の殉教者とか、額にしわを寄せた文学者と思いたくない。 小田さんは、古代ギリシャに憧れ、ソクラテスを主人公にした『大地と星輝く天の子』を書いたが、わたしはこころひそかに、人生の快楽主義者エピキュリアンでもあったと思っている。 しかし、いまイラクやアフガニスタンで、かつての」ベトナム以上の戦火が渦まいている。しかもわが国は、ベトナム戦争の頃には聞かれなかった憲法改正の野望さえまかり通ろうとしている。小田さんの意志を受け継ぎ、平和憲法を守るのは残されたものの責任である。 (時事通信)
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「万物流転」――小田実さんのこと
参議院選挙で歴史的な変革が起こり、天まで嵐模様となった夜更け、小田さんが逝った。覚悟していたが、こんな夜にとは思わなかった。 この3月に突然手紙をもらい、フィリピンの難民を支援するためのベルギーでの国際会議での帰途トルコで発病したとあった。世界を股にかける小田さんらしい旅だ。「2月に会えてよかった」と書いてあった。覚悟の手紙だった。 はじめて小田さんと会ったのは、1962年秋、わたしは新米のテレビディレクターで、小田実が『何でもみてやろう』で彗星のごとく出現した直後だった。ふたりで四日市の石油コンビナートを取材し、「しょうちゅうとゴム」というドキュメントドラマを書いてもらった。ぼくは工場のアルミパイプに日本経済を象徴させた。音楽は、のち三里塚にかかわる高橋悠治だった。45年後の今年7月、高橋悠治さんと奇跡的に残ったこのドラマを上映した。小田さんも来てくれるといったのに、かなわなかった。 60年代の希望は、すぐに公害と戦争の時代に変わった。小田さんと知り合ったせいで、わたしは放送局を飛び出しルポライターになった。3年後の1965年、ベトナム戦争が本格化し、小田さんはは哲学者鶴見俊輔らの呼びかけに応えて、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を結成した。日本ではじめての組織をもたない市民たちのボランティアの平和運動だった。開高健さんや永六輔さんたちとニューヨーク・タイムスに反戦広告を出した。 60年安保の直後のこの時代、まだボランティア運動や、NPOはなく、平和運動は、既成政党や大きな労働組合の支援によるものと思われていた。組織のないふつうの市民に何ができるかという風潮だったが、やがて全国にこの運動は広がった。70年6月にわたしがデモの責任者となったときには、青山通りに7万の市民が集まった。先日もそのときの写真をカメラマン、ハービー山口の作品で展示したところだ。 1967年、米空母から4人の19歳の水兵が脱走してきた。わたしは記者会見をフィルムに収め、中のふたりを我が家にかくまった。そのあとで小田さんとハノイまで出かけた。 市民運動家としての小田さんは、抜群の発想力と行動力の持ち主だった。学者や学生運動家の運動体験者や若者が、組織をもたず、対等で議論したが、最後には、小田さんの突飛な(と思えた)アイデアできまりだった。それを吉川勇一事務局長がまとめた。 その間のことは、わたしも「ふあつく」という小説に書いて、あからさますぎると批判されたりした。危機もあった。脱走兵では、警察やCIAがうかがっていて、根釧原野で逮捕された人いた。行動が失敗すると、鶴見俊輔さんが「これでいいんだ」と救ってくれた。時代は、三里塚、羽田、街頭闘争、火炎瓶、スキャンダルが渦巻いていた。 小田さんの思想は、敗戦の直前、大阪でB29の焼夷弾に逃げまどった体験から来ていた。小田さんはそれを鳥の眼でなく、地上で逃げ惑う子供として思想化した(『難死の思想』)。ベトナム戦争終結後は、阪神大震災の被害者の立場に立ち、被害を補償する運動に実った。 小田さんとわたしが対立したのは、二人が別々に東京都知事選の候補に擁立されたときだが、わたしはとうてい小田さんと争う気になれず、下りてしまった 。 小田さんはまた、大きなかばんの中に小さな原稿用紙を忍ばせて長い長い小説を書いた。遺作の『終わりのない旅』は、ベトナム戦争と歴史と個人的体験史を融合した傑作だし、英訳された『玉砕』は世界に通ずる。夫人の玄順恵(ヒョン・スネ)さんと一人娘のナラさんが、大旅行家に寄り添っていた。 イラクの戦火がやまないいまこそ、ベトナム反戦の体験を伝えてほしいと多くの人々が期待していた。しかしそれは、憲法9条を守る願いと戦いとともに残されたものの手にゆだねられた。 小田さんの好きなギリシャのヘラクレイトスの言葉を捧げたい。――「万物流転」。エピキュリアン(快楽主義者)とは言わないまでも。 わたしは小田さんのどこにあこがれたのか、旅か、文学か、市民運動か、いまではその三位一体だったと思う。これからの旅は一人一人だとしても。 (東京新聞)
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歴史教科書
火の粉が身近に迫ってきた。新しい歴史教科書をつくる会主導の中学用歴史教科書である。公立中学は、通常、都立や県立はない。ところが、全国で中高一貫高校が生まれようとしている。東京でいえば、すでに発足している白鴎高校、新たに両国、小石川、都立大付属である。いずれも名だたる伝統校だ。灘や開成のように進学校にしようというのだろう。
ところが、都立中学となると、その教科書は、今度副知事になった元教育長や米長棋士のいる教育委員会が決定する。白鴎ではすでに採用された。同窓生が危機感をつのらせ、去る7月16日には両国出身のカメラマン石川文洋氏が集会で訴えた。7月25日には、4校同窓生が教育委員会に要請を行なう。筆者も同窓生である。同窓生の多くはこの事態を知らない。突如襲い掛かる火の粉とはこのことだ。
この教科書は東京裁判について「不戦条約(など)」に違反したということを根拠にしていたが、これらの条約には「それに違反した国家の指導者をこのようなかたちで裁判にかけることができるという定めはなかった」と強弁している。わたしたちは戦後、教科書に墨を塗った世代だ。わたしたちのかわいい後輩にやがてそうするかもしれない教科書を使わせていいものだろうか。
(『キリスト新聞』「望楼」2005年7月22日)
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酒と鎮魂
詩人宗左近は、東京大空襲の猛火の下で昇天した母を恋う長詩「燃える母」で鮮烈なデビューを飾ったころ、わたしをそこから程遠からぬ大学に招いてくれた。その宗さんが、7月1日、800頁の『詩集成』を上梓された。深い、ずしりと胸にこたえる大作だが、「あとがき」がいかにも戯作めかして深い。 日本人はなぜ桜の花に狂乱するか? 梶井基次郎が見抜いたように母が生者の苦しみを解き放つ宗教なのだと気づく。「じつに日本人庶民特有の、いわば桜教の神様は《母》なのではなかろうか。死んだ母が蘇って咲き出て、生者のわたしたちの苦しみと悩みを、解き放ってくれる、鎮魂してくれるのである。だからこそ、みんなが踊る。歌う。酔っ払う」。宗の筆はここで一転、これを文字にしたのが憲法第9条である、と断じるのである。 私は宗さんに、僭越ながらお手紙して「ワシントンの友人が、ポトマックでもお花見するというから、ちがう。お花見とは毛氈を引いて、あらよっと踊る」と戯れに返事した。 宗さんのご著書が出た同じ7月1日、拙著『ラメール母』をもとに歌手の碧川るり子が台本・主演を演じた「ラ・メール」が上演された。草月会館の円形の座席が3階まで埋まったのは望外の喜びだったが、そんなことより、碧川の脚本と演技が象徴的で舌を巻いた。私がいうのも変だが、一生を逃げて生きる男が脱走兵にめぐりあうことで人生を決断するところにテーマを絞り、ムルージのシャンソン「脱走兵」が実写フィルムを背景に流れる。古典の造詣の深い水谷千尋が「母親主体というより、主人公に精神の高揚と平和行動を促す役割となる“女神”信仰劇になっておりました」と感想を寄せてくれた。 「酒のペン」のお仲間も多数駆けつけてくれて、身に余る幸せだった。舞台と酒宴はギリシャ神話のバッカスの昔から、同種の恍惚と陶酔をもたらしてくれる。どちらも作家一人の思い上がりを超えて、集団の想像力と友情が醗酵して陶酔を生み出すといおうか。この世の苦悩を癒すために虚構があり、酒がある。私は「ラメール」を聞きつつ、私の生涯はついに一曲のシャンソン、一杯の杯にしかずと知った。 (「酒のペン」)
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放課後の校庭
60年以上経ったいまでも、あの日の、空が白く輝くような上海の校庭を思い起こす。太平洋戦争開戦の年の国民学校1年生。武田先生が「そんなにじっとしていられないなら、校庭にいって遊んでいらっしゃい」といった。そうしたら、ぼくは嬉し気に「はい」と答えると、廊下にも回らず、そのままひょいと真横の窓から飛び降りて、人っ子一人見当たらない広い校庭で鐘が鳴るまで、気持ちよさそうに遊んでいた、という。 今度、上海からべ平連まで、母の手記をもとにした自伝小説「ラメール母」を書くので発見した母の手記を読むと、母もそれを聞いて、さすがにあきれてはいるが、息子を叱った風情はない。当時はLDなんて言葉がなくてよかった。 その後、病弱のわたしは内地(日本)にもどり、2年間も登校せず、転地療養をして戦時下を過ごした。そのことを、母も気にしていた気配はない。 ずっとのちに、わたしはNHKで小津安二郎のテレビドラマを演出した。いつまでも嫁ごうとしない娘(テレビでは小林千登勢、映画では岩下志摩)に父親の友人が諭す。 「そんなことをしていると、放課後の校庭のようになる。ふと気がつくと、まわりにだれもいないよ」 このあと、NHKが「出ていきなさい」というから、わたしはひょいと辞めてしまって、それっきり。 この年になっても、だれかに「出ていきなさい」といわれたら、わたしはひょいと出て行ってしましいそうだ。たとえ、この世からであっても。でも、なんだか母に申し訳ないような気持ちだけはしている。きっと不登校児は、みんなこの開放感と申し訳なさをないまぜにした白い輝く感情を、そっと心の中で慈しんでいるのだろう。 |
屠蘇は口に甘し
恩師フランス文学の渡辺一夫先生は、お年始というか、酒飲みに元駒込のお宅に伺うと、薄緑色の液体を妻と私の前の二つの小さなグラスに注いでくださった。先生は、おろかな私に振り回される妻を慰めようとしてくださったのだ。
「これはね、フランスの東南の山間のシャルトルーズ修道院で、仕込まれたリキュールでね、お屠蘇みたいな味でしょう。薬効あらたかで、馬鹿な男の浮気にききます」 それでいて先生は、とろりとした甘すぎる酒にすぐ辟易して、「小中君、こういうものは一杯でよろしい。折りよく水野君(成夫、先生と仏文同期、戦前の共産党員)が、クリスマス・プレゼントにナポレオンをもってきた。資本家の酒は飲んでしまいましょう」といって、ブランディをなみなみと注いでくださった。こちらも財界四天皇の保守反動の酒だから遠慮せずにがぶ飲みして、先生も不肖の弟子もすぐ酔っ払った。最近、水野の次男(西武百貨店社長、民主党代議士)にあったとき礼を言ったが、「資本家の酒だから」というところは省いた。 妻の音楽学校同窓の江口みちるさんから、亡くなられたご主人(芸大教授、コントラバス)遺愛のシャルトルーズをいただいたものをキャビネットから取り出し、ちびりちびりやりながら、この文章をしたためている。修道僧が作っただけあって、強い薄荷やなんだかわからないハーブの香りが鼻を衝いて、「薔薇の名前」のショーン・コネリーになった気がする。 屠蘇は洋の東西を問わず薬効を主とするところが面白い。妻に「屠蘇って何だ」ときくと、「山椒、桔梗、肉桂、蜜柑の皮などを袋にいれて、お味醂に浸したしたものよ」といった。悔しいから字引を引くと「魏の名医華侘の処方だ」とある。 シャルトルーズを嗜むうちに、「薄荷じゃ頼りない、先生、いっぱいやりましょうよ」と天国の先生に呼びかけて、結局ナポレオンの瓶に手が伸びたのは、おたがい信心が足りないんでしょうねえ。シャルトルーズは、先生のセーターのにおいがする。先生と飲みたいのは、シャルトルーズかナポレオンか、いや青春のあのほろ苦さ。 屠蘇もシャルトルーズも、所詮、冥土の一里塚。目出度くもあり目出度くもなし。 (「酒のペン」2005.1.20)
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あざなえる災害の中で
「うぅ、あぁ」と土砂の中から小さな声がした。救助隊員は手で泥をかき出した。皆川勇太君(2歳)は、丸4日暗闇の中でどうやって耐えたのだろう。頭上からは巨岩がおいかぶさり、右手には倒立した車、中の母や姉の生死も知れずに。成人ならとても正気ではいられまい。幅50センチ、たて1メートルの空間におしめ一枚で立ち尽くす姿は、民話にある岩の中の童子のようだ。岩のしずくが乳だったのか。祖父が「勇太、がんばれー」と悲痛な声を振り絞った祈りが通じたのだ。 ひとは奇跡と呼ぶ。神を信ずるものは神と呼ぶだろう。自然は(神も)、家を押し流し列車を脱線させる。他方、わずかの空間を用意して幼児を救う。轟然と落下した巨岩は母のようにそっと寄り添って勇太君を守った。筆者は、室戸台風のときに生まれ、伊勢湾台風を取材し、母は阪神淡路大震災の直前に死んだ。室戸3036人、伊勢湾5041人、阪神6432人、史上三大死者である。生きたものは雄太君のように岩の隙間が守ったにすぎない。筆者は最近、その思いを自伝にした。人の一生はあざなえる災害の中にある。いまなお氷雨のなかで避難生活をつづける村人に、一刻も早い援助の手をさしのべよう。 (『キリスト教新聞』2004年11月11日) |
邯鄲の夢
「手前取り出だしました古酒3種、1年、5年、10年もの。いずれをあやめ杜若、ひとつ飲み比べてごろうじあれ」 島崎健一専務の巧みな口上とともに振舞われた「東力士」。すかさず麻木正美が「烏山の洞窟に掘られた旧日本軍の防空壕に酒を貯蔵して熟成させる」と通。 当夜の肴がいい。樽一若主人佐藤慎太郎の粋なはからいで、鯨の尾肉に鯨鍋。聖書のなかの鯨に飲み込まれるヨナの話が大好きで、かねがねヨナ太郎と自称している筆者にはなんとも粋な肴であった。 わが隣りには、烏山からはるばる古酒をしょって駆けつけた島崎あや子さん。NHK番組審議委員で、ソロプティミスト会長を歴任、近頃は陶芸窯ぐれ女。 今宵の酒のペンの会の趣向には、実は古酒ならぬ長い歴史がある。「白銀は招く」のザイラーが来日したころだから、かれこれ40年前になろうか。私の母は、一人息子(わたし)が勤めに出た寂しさ、赤倉で五十だてらにスキーに興じていた。それよりまえ、ストレス発散にはビールがなによりと、朝日の「ひととき」に投稿し、その反響に、島田療育園を訪問する運動を立ち上げた。次いでスキーである。 赤倉のゲレンデをよたよたと降りてくる母と知り合いになったのが、当時女子大生のあやこさん。ふたりとも豪胆なところが似ていて、意気投合。ゲレンデをあがると暖炉の前でビールのグラスを重ねる仲となった。やがて年古り、ソロプティミストの会には陽太郎は講演に招待され、妻と烏山まで足を伸ばした。そのとき東京農大の醸造科に入学した少年が、いまや専務で、さきの酒の口上を述べた主。 他方、これとはべつにポプラ社の担当編集者の堀ただし君が愛したのが、この樽一。親父の佐藤孝(故人)には、鯨の舌を「さえずり」と呼ぶことを学ぶ。店長有田俊一が大病するも、全快は鯨の余徳か。 もうひとつの奇遇は、麻木さんがご案内してくれた文鳥堂吉田百合子さん。小学校時代からの親友の妹で、60年前の等々力渓谷の野鳥のさえずりがよみがえった。ときあたかも、母と島崎の交流を書いた『ラメール母』の出版を朝日新聞加藤修記者がカラーの顔写真付きで紹介してくれた刷りたての夕刊が届く。 邯鄲の夢というが、これだけの歳月を引き出すには、10年ものの古酒を、そも何杯。 (『酒だより』139号、2004年11月5日) |
ヒロシマへの道、ヒロシマからの道
(『放送文化』2004年10月号) |
相席は日本の誇り
「お相席というのですか? 僕はこれがたまらなく好きなんです。アメリカには決してありません」 というのは、母を日本人にもつ大学の専任講師である。ある日、杯を差しつ差されつしていると、感に堪えかねたように嘆息をもらした。こちらは酒さえ飲めれば、相席だろうが、独酌だろうが、いっこうに気にならないタイプだから、 (へえ―、そんなものか) と、「こちらは客で、女将じゃないんだから、相席に「お」をつけんでもよろしい」と日本語を教える。 この相席しかないのが、神田司町の「みますや」である。明治38年の創業だから、日露戦争からこちち、ずーと相席をやっているわけだ。 さすがに関東大震災では焼けたが、今次の戦争にはこの一郭だけ焼け残った。丸の内線淡路町下車、外堀通りをちょいと大手町のほうに行って、明治損害保険のビルの脇を右折するのだが、筆者としては千代田線新御茶ノ水駅で降りて、本郷通りを美土代町に向かい、カフェ・ド・クリエを左折していただきたい。わが自伝『ラメール母』の版元平原社の脇を通るからだ(外堀通りを秋葉原に向って、神田寿司の隣りの堂々たる白亜のビルが会員麻木社長の白泉社である)。 するってえと、黒いなまこ板の壁で、いかにも鼠小僧次郎吉でも潜んでいそうな居酒屋が現われる。軒の看板がいかめしい。中に入ると、広い土間にテーブルが並び、右手に小上がり、ここがすべて相席。左手奥にある小座敷とて例外ではない。帳場に坐って相席を差配しているのが、4代目の岡川陽一、優男だ。 酒は、白鷹正一合(正というのが売りだ)400円。八海山なら750円。おすすめは奥の調理場で当主の兄貴が、吹きこぼれんばかりの熱々を仕込んでくれる柳川鍋800円。それを待つ間、きぬかつぎ(250円)の皮をむく。脂っこいのがお好きなら、牛の煮込み500円が人気だ。馬刺し1800円はちと高いが、焼き魚は各種400円と家庭的。 この相席なるもの、日本の偉大な伝統なのに、近頃では相席というと、イヤそうにふくれる娘っ子が、スタバなのにおる。一度「みますや」に連れてって、どぜうでも喰わせてえ。 (『酒だより』138号、2004年10月5日) |
硯友社と差別へのまなざし
明治の硯友社四天王の一人、小栗風葉の出世作「寝白粉」は、日本近代の最初の発禁本として知られる(小田切秀雄『発禁作品集』)。
銀杏屋の万年娘お桂は厚化粧の美人であるが、なぜか縁遠い。そのうちに近所でも評判の色好みの若旦那の手がつく。そのとき兄は、自分たちがいわれのない差別に苦しむものであることを告げ、場末に移り住む。それどころか、いつとはなしにお桂のからだはつやつやとしてくる。 「ここにひとつ合点が行かぬは乳首の色、腹の形も次第におかしと風呂にて見し近所の女房どもがかげごと」(「寝白粉」) この肉体描写が官憲の忌避するところとなったが、もちろんこれは差別への抗議が忌避されたのであろう。 伊藤整によると、重い皮膚病のため嫁ぐことのできない妹のいた野口寧斎という漢詩人をモデルにしたのだそうだが、どちらにせよ、差別への理不尽さへの告発を根底に、人間の性の反逆、そして世間の好奇の目の無責任さをつき、硯友社風の深刻趣味、露悪趣味がまったくないとはいえないが、差別の下でもがき苦しむ人間のさがを正面からとらえたものといえよう。 このあと、風葉は造り酒屋の没落をえがく「亀甲鶴」を発表する。この作品も酒造りの手順と労働を生き生きと描写し、硯友社と片付けるにはあまりに近代的な労働小説となっている。 わたしが小栗風葉の社会性に注目するのは、この風葉の甥で、ヒトラー政権下に東大助教授・国崎定洞が創設した日本人ドイツ共産党に入党する小栗喬太郎の苦闘を『青春の夢―風葉と喬太郎』(平原社刊)で跡づけようと試みたからである。 喬太郎がマルクシズムに没入するきっかけは、出身地愛知県半田の養蜂業で「春秋新報」を出しつづけた部落解放運動の先駆者・加藤今一郎に親しく影響を受けたことにある。加藤は1924(大正13)年、松本治一郎を招き、半田の成岩(ならわ)水平社創立大会を開いている。そして直接的には、喬太郎は1927(昭和2)年陸軍特別大演習観兵式で名古屋の歩兵第六連隊に徴兵中、第六八連隊(岐阜)の北原泰作が天皇に直訴したときの隊列にいた。 名古屋拘置所で北原の警備にあたった喬太郎は、やがて満州事変の直前、べルリンに渡り、国崎の手引きでドイツ共産党日本人党員となる。しかし、ヒトラーの政権奪取とともに帰国、宮本顕治にミュンツェンベルグの密書を渡すなどの仕事をするが、治安維持法違反で逮捕される。保釈後、戦後まで生きるが、そこで結核が再発、波乱の半生を閉じる。わたしがこの薄幸の無名の革命家を描いたのは、わたしの妻の異母兄で、その残したわずかの手記を元に、当時の歴史を追いたかったからである。 愛知県半田市は知多半島の三河湾沿い衣浦湾の中心に位置し、古く海運業、醸造業の港町として栄えた。そこから、ミツカン酢やソニーの母体となる「ねのひ」、敷島パンが生まれた。近代に至り、繊維産業から第二次大戦中は航空機産業の拠点として、勤労動員の男子中学生・女高生が半田空襲、東南海地震の犠牲となり、いまも犠牲者の追悼の掘り起こしが「半田空襲と戦争を記録する会」により行なわれている。 また、新見南吉のふるさととしていまも訪れる人は多いが、こうみてくると、風葉の「亀甲鶴」などの作品の舞台はよくわかるが、なぜ「寝白粉」が生まれたのかが疑問になる。 最近になって、前記「記録する会」の佐藤明夫氏の新しい研究によって、そのひとつのきっかけが明かされたように思う(「成岩部落解放史の光と影」『愛知の歴史教育』第8号、2004年3月)。 佐藤も、小栗喬太郎の活動から半田水平社のことを知るが、それ以上の手がかりがつかめない。そのうちに歴史教育者協議会の会員で市役所の戸籍係だった人を介して、当時の事情を知る中村米春氏を知る。そして、1958(昭和33)年ごろまで存在した被差別地区に行き当たる。言い伝えによると、一向一揆の敗軍が家康により「非人」とされたものという。この説には異論もあるようだが、部落起源の一つの説の例証かもしれないと、佐藤は慎重に考察している。 1871(明治4)年、明治新政府は太政官令として「解放令」を発令したが、社会的差別撤廃を保障するものではなかった。しかし、これをよりどころにした解放を求める動きが生まれた。1874(明治7)年の「人民差別争論訴済御答」によると、かれらの訴えにより「学校入校之儀は故障之無き様」と成果を勝ち取っている。訴訟から20年後の1895(明治28)年「扶桑新聞」に入浴差別事件を報じた記事がある。裁判を起こし、以来露骨な入浴差別は減少した。 このような運動の中から、前述のように1924(大正13)年9月24日、成岩水平社が創立されるのである。その後、水平社の平民運動により、粘り強い抵抗を重ねつつも、やがて融和事業の窓口となり、分裂するさまも佐藤はみていく。1936(昭和11)年、愛知県地方改善連盟結成の文書には、水平社の名はなく、愛知県水平社は1940(昭和15)年8月25日解散する。そこで佐藤の論考も終わる。 風葉の「寝白粉」は1896(明治29)年、入浴差別訴訟の1年後であった。そして、その甥喬太郎が逮捕されるのは水平社解散と同じ1940年8月であったことを重ね合わせると、天皇制の弾圧の周到さとともに、差別に苦しむものと社会主義者の運命の同一性を目のあたりにする思いがする。 こうしてみてくると、絵空事を書いた(中村光夫)とする硯友社の作家が、実際は、身近の矛盾をしっかりと見据えて、そこから材をとっていたことがわかるではないか。そして、次の世代である喬太郎は、それをマルクシズムや反天皇制の社会運動として解決しようと、現実の運動に身を投じたのである。 半田や常滑の酒は伏流水から生まれたといわれる。文学も社会運動も地層の歴史と人間の伏流水が脈々と流れつづけているのであろう。 拙著『青春の夢』も、一つの地域に密着した風土・歴史として評される。私事で恐縮だが、わたしは最近、母をモデルに災害と戦争に挟まれた昭和期の中流階級を描いた『ラメール母』を上梓した。わたしは室戸台風の直前神戸で生まれ、上海で開戦を迎え、東京で空襲、名古屋で伊勢湾台風を体験した。母は阪神淡路大震災の直前に死んだ。わたしの半生も、天災と人災(戦争)の20世紀である。わたしが長年追い求めた記録としての文学と、歴史に翻弄される人間というテーマが二つの作品で少しは結実してくれまいか、と願うこと切なるものがある。一家の記録が、集団の歴史性に高まる至福の瞬間を待っている、とでもいおうか。風葉の苦闘に頭の下がるこのごろである。 (『千年紀文学』52号、2004年9月30日) |
平和運動の継承を誓う
滋賀秀俊医博を東京世田谷の介護老人保健施設「うなね杏霞園」にお尋ねしたのは、先生がちょうど100歳の春であった。そして、2004年8月、102歳のいまもお元気で文通しているから、うれしい。
ちょうど、わたしが32年ぶりにハノイに訪れる直前だった。先生は「ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会」(1966年設立)の団長として多くの資料を収集し、ベトナム戦争反対運動におおきな足跡を残された方だ。ベトナム反戦の市民運動に没頭したわたしとしてもおおきな尊敬を抱く人だったが、直接お会いして、その広がりと、わたしとの接点の多さに驚嘆した。 まず生きる歴史だと思ったことは、ドイツ共産党日本人党員を組織した国崎定洞医博の教え子であったことだ。わたしは妻の異母兄小栗喬太郎を主人公にして『青春の夢―風葉と喬太郎』(平原社刊)を書いた。明治の硯友社の四天王のひとり小栗風葉の甥にあたる喬太郎は満州事変の年ベルリンに渡り、国崎の手引きでドイツ共産党に入党する。そこで国際的革命家と交流、ヒトラーの政権奪取でやむなく帰国するときには「ミュンツェンベルクより資金をあずかり、宮本顕治に渡した」と本人の手記にある。これは谷川巌の証言も聞いた。宮本顕治氏にも直接伺ったが、「当時はみな偽名で行動していたとのことで、小栗の名による記憶はない」と丁重な説明を受けた。これも貴重な運動史である。喬太郎は治安維持法で逮捕起訴、保釈後戦後まで生きたが、結核で死んだ。これからというときで、郷里半田ではいまも彼を慕う運動家は多い。 さて国崎は、ソ連亡命後、スパイの汚名を着せられ、銃殺。のち名誉回復するが、スターリン時代の暗黒の歴史である。滋賀秀俊は、東大4年のとき国崎に社会衛生学の講義を受けたのであった。先生はさすがに100歳とあって、お耳が不自由で質問は筆談だったが、返答は朗々たる音声(おんじょう)だった。国崎について、どんな人かと聞いたときの答えは、「惚れ惚れするような人だった」とわたしのメモ代わりの紙に大きく書いてある。小栗喬太郎も惚れ惚れするような人だった、と妹にあたる妻がいうが、この符合が、さもありなんと、わたしにはとてもうれしかった。志賀先生は3年のとき東大新人会に入会、1930年治安維持法で逮捕された。 第2の先生と私の関心の接点は、べ平連の創立者のひとり哲学者鶴見俊輔氏との接点である。お2人は、ながくわたしの中では結びつかなかったが、2人はアメリカで旧知の間柄であった。滋賀先生はロックフェラーの奨学金で留学、それを鶴見さんは、当時のアメリカのリベラリズムの証拠として高く評価された。2人はなんと交換船で同時に帰国したのだ。これにも驚いた。 第3の接点は、『思想の科学』社長を務めた上野博正との関係だった。上野は産婦人科医だったが、『思想の科学』を支え、それでいて新内の名手だった。下町っ子に友人のいないわたしには理解を超える貴人だったが、滋賀先生は、そんな上野を「彼は天才でした。戦災孤児で、女性関係がルーズでね」というところまで見抜いていて、仰天した。それを鶴見にいうと、うれしそうに大笑いした。 このときの面会で、わたしは国崎や宮本名誉委員長が登場する『青春の夢』を献呈したが、当時100歳の滋賀氏が650頁にわたる大部な拙作の読後感をいただき、これまた舌を巻いた。 最後の接点は、不肖わたしである。それは実弟滋賀秀正氏を介してである。実弟といっても、この2004年で90歳になられた。秀正氏は、わたしの通う日本基督教団中目黒教会でお会いする。秀正氏の運命もまた戦争の中を文字通り九死に一生を生き延びられた。 敗戦記念日の8月15日、今年90歳の秀正氏に、東部ニューギニアイの悲劇をふたたび聞いた。秀正氏は北大医学部を卒業、軍医として1939年仏印に進駐、1942年ニューギニア救援部隊として元オーストラリヤ75連隊に合流するべく富士川丸でラバウルへ。そこから43年8月潜水艦でニューギニアに派遣された。米軍が上陸、部隊は4000メートル級の山中を米軍に追われて餓死線上をさまよった。木の皮を剥ぎ、蛇を食べたが、薬はなく、炭になった木片が胃腸薬だった。腰までつかる河を流されないように肩を組んで渡河、500人の部隊は50人になっていた。東部ニューギニア全体では15万の日本軍が上陸したが、生き残ったのは陸海軍あわせて1万3000人にすぎなかった。わたしの上海の国民学校の同級生も父をこの地で失っている。 世界の11人の監督が、ニューヨークのビル崩壊をあつかった映画「9・11」でも、今村昌平監督は、南方戦線で天皇陛下の名のために死線をさまよった兵士が自分を蛇とみなして生きる姿をあらわし、この記憶が日本人の原体験に染みついていることを描いている。 秀正氏は長く中野勤労病院(健友会)で医療をつづけた。いまも、日本基督教団中目黒教会で夫人とともに元気な姿を見せてくれるが、時にその悲劇を若い者に淡々と伝えている。キリスト教というと、これら医師の軌跡と重ならないように思われる読者もいようが、そんなことはない。わたしたちの教会の牧師西上信義の長男信太郎氏は、群馬県の前橋協立病院で民医連の中堅内科医として活躍しておられる。わたしたちの教会は東京の平均的な教会だが、こうして民医連の医師が2人もいることに、わたしは大きな歴史的必然を感じている。 最後に、私のことを自己紹介させていただきたい。8月、教会の平和集会で、ベトナム戦争当時の脱走兵の秘蔵のフィルムを上映した。フィルムの中で当時19歳のアメリカ兵は「わたしはアメリカ憲法の精神に従って、いま軍務を離脱する。ベトナムで行なわれていることは間違っている」と宣言して、長い旅に出た。いま話題のジェンキンスさんもきっとなにかの志があったに違いない。それを、本人の口を封じて日本に中に押し込めようという救援の方法に、わたしは賛成しない。 先日8月5日、6日と原爆記念日に、広島で日本マスコミ文化情報労組会議の「広島フォーラム」でも、このフイルムを上映した。これが、わたしのこの夏の平和運動である。このフィルムを持ち出してきたのは、わたしが幼時の上海会戦の思い出から、空襲そしてべ平連、都知事選候補問題のときの革新統一戦線の仲間の励ましと、それを分裂させた策動、そして最後に両親の介護まで、長い自伝小説『ラメール母』(6月、平原社刊)をやっと上梓したが、その途中で発見したのである。このことをここに記すのは、都知事選で革新の輪につないでくれたのは、じつは『文化評論』の土井大助や故永井智雄だったからだ。しかし、考えてみれば、それをわたしに促したのは国崎定洞に導かれた小栗喬太郎である。その国崎の志を生きて102年間守ったのは滋賀氏である。わたしの短い運動では到底太刀打ちできない。そのことをいつか書こうと思っていたが、いま59年目の「8・15」に少しでも書き残して、滋賀兄弟や喬太郎のしぶとい闘いの同士に加わることができて感慨なきをえない。おふたりのご長寿を願うこと切なるものがある。 (『文化評論』2004年9月号) |
「弾圧とテロ」
北オセニアの武装集団の学校占拠による銃撃戦で死者は500人を超え、半数が子どもだった。負傷者は90%人を越す。血まみれの裸で抱きかかえられる少女、焼け爛れた体育館に立ち尽くす母親。誰の銃弾にせよ、なぜ罪もない子どもが犠牲にならねばならないのか。
その夜、水の精オンディーの異端裁判を描く芝居『オンディーヌ』を見ていた。金森馨の遺作のセットは、セビーリヤのヒラルダの塔。夕焼けが赤い。ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の大審問官登場の場に設定したといわれる。次男イワンは、敬虔な弟アリョーシャに、史上最強の無神論といわれる譬え話を展開する。一言にしていえば、罪のない子どもが何千何万も飢えと戦いで死ぬではないか。これでも神がいるというのか? この問いに容易に答えられるとは思わない。
プーチン大統領による過酷な民族絶滅政策、それに対抗する無差別テロ、外国勢力の介入。しかし、なぜがんぜない子どもたちが犠牲になるのか。ヒエルダの塔で姿を現わすのは、世俗の完璧な政治権力。それにイエスは何と答えるか。無言ともいえるし、答えはあるともいえる。イエスの自己犠牲だ。すくなくとも、弾圧とテロの応酬では解決しない。
(「キリスト教新聞」2004年9月10日号) |
「加茂鶴は二合徳利で」
ぐいっと二合徳利を傾ける。白地に藍の図柄の徳利の、すらりと端正で、しかもすわりのいいところ、年季のはいった踊りの師匠を思わせるではないか。
徳利にはいろいろある。志野織部の渋み。赤膚の薄手、これは美濃の多治見のもので、口の辺りに松竹梅があしらってある。 徳利は二合に限る。たっぷりあるぞ、と気合いがはいる。この感じ、名古屋市伏見の「大甚」に勝るものはない。 1本690円、黙っていると「加茂鶴」が燗で大きな木机の上にドンと置かれる。 注文により「菊正」(同値段)も。客は白髪の男が一人でたしなむのもあれば、この先の御園座の昼の部を見終わった大垣の女性グループにサインをねだられた、というぐらいで、なんたって客筋は役者。芝翫さんが一人でぐい呑みだわいなあ。 あれ? でもまだ芝居は跳ねていないのに「いまごろ芝翫はん、なんでここにいてはるの?」と野暮なことはいわしゃんすな。 飲みはじめは、わたしが初めて名古屋に降り立った伊勢湾台風のころだから、かれこれ40年の付き合いになる。名古屋の繁華街広小路を駅に向かい、伏見通りと交差して、角から2軒目の縄のれん。 創業明治40年、今年で96年、と聞けば暖簾の貫禄も頷けよう。 当主の山田弘で4代目、肴はとっつきの大机に並べてある。いわしの煮付け260円が定番だが、わたしは「いたわさ」がお勧め。 いたわさたって、板にちょこんと乗っているのとはわけが違う。焼け目のついたかまぼこを板のまま、包丁だけ入れて供する。 ここで、小生を「このひと」欄に取り上げてくれた中日新聞の名物記者いがみの権太、それにこれまた終戦特集でわたしのフィルムを取り上げてくれた中日放送の正義派記者と文学論。と言ったって軟文学のほうでげす。なにしろ、あちらさんはいまどきめずらしい都都逸記者。 冬のソナタに君の名ダブり 星に願いの視聴率 (茂呂琴) てやんでえ! 二合徳利にまた手がのびる。 (『酒のペン』2004年10月号) |
「ニネベ」
読者のみなさんは、モスリンときくとどんな感じをもたれるだろうか?
昔懐かしい反物、母の着物だろうか。このモスリンは、モスールからきたことをご存知の人は少ない。 モスールはイラク北部の石油都市で人口65万、しかしいまから2000年前にも人口12万と無数の家畜がいた。どうしてそんなことがわかるかというと、聖書にちゃんと書いてある。 モスールからティグリス川をわたると、アッシリアのテルの宮殿跡には巨大な人面獣の石像が砂漠の中の台地を睥睨し、城門の中でベドウィンの女がおおきな釜の内側に練った小麦粉を貼り付けてパンを焼いていた。 そこに一人の旅人がたった。わたしではない、その名はヨナ。 ヨナは、鯨の腹から吐き出されたところで、船酔いでふらふらしていた。もともとこんなところに来たくはなかった。何しろここは異教徒の町で、しかも主にそむき、大量破壊兵器も隠しているらしい。どうしてそんな異教徒を救う必要があるのかと、いったんは逃げ出したのに、主は鯨にのみこませ、ここに連れ戻したのである。 しかたがないからヨナは宣教して回った。人びとは悔い改めた。すると主は、モスールの住民を許した。それがヨナには気にいらない。 「いったん派兵した以上は、とことん残留するぞ」 もうどうにでもしてくれと、城門の下に座り込んだ。すると、主は大きなとうごまの木をはやして涼をおくった。それなのに、突然木を枯らす。ヨナはますます腹を立て「暑いではありませんか、さっさと殺せ」とふてくされた。 そのとき主はいわれた。 「おまえはこのとうごまの木を惜しんでいる。それなら、どうしてわたしがこのニネベの町を惜しまずにいられよう。ここには12万の人間と家畜がいるのだから」 このとき、世界宗教としてのキリスト教がうまれた。 「目には目を」であってはならない。それをなんだ、囚われの大統領に対し「目には目を、歯には懐中電灯」でいいのかと、ヨナは今日もとうごまの木の下で歯軋りしていよう。 (「望楼」『キリスト教新聞』2004年7月26日) |
「ふぁっく・ラメール」
雀、海中に入りて蛤となる。「ラメール(母、海)」酒の会に至りて「ふぁっく」となる。
よくアメリカの小説に「マザーファッカー」という俗語が登場する。 最近、母の残した手記を元に、上海、戦時下の日本、NHKの失敗からベ平連に至る自伝小説をものした。書名をつける段になって、はたと困った。 ジョン・レノンに、自分を捨てて行った母を恋う「マザー」という絶唱がある。それをいただこうと調べると、同名の作品が十指にあまる。しかたがない。フランス語のラメール(母)をもらった。発音だけだと「海」にもなる。三好達治の名詩「海の中に母がある、母の中に海がある」にも通じる。 本が出来た。肴がわりに秘蔵のフィルムを上映しようと、隠し持ったる脱走兵の記者会見のフィルムや、わたしが若き日小田実の原作で演出した「しょうちゅうとゴム」という実験ドラマを取り出してきた。さいわいペンクラブの会議室は、北河原恩教授の設計で、ルネサンス円とかいって白塗りの壁面。ここに映し出すことにした。上映会に集う者、井出孫六、早乙女貢の面々に、わたしの出版関係の呑み会「よたろう会」、それに本誌「酒の会」の有志。その案内状をみて仰天。「ラメール」が「ふぁっく」となっているではないか。 ときは1970年、ベトナム戦争当時、反戦演劇として来日したジェーン・フォンダの「ファック・ジ・アーミー(打倒!軍隊)」横須賀基地公演を中心に、ベ平連の糾弾運動を生々しく書いて、鶴見俊輔氏が「スキャンダルで運動の硬直化を防いだ」と弁護してくれたいわくつきの作品。じつは近作『ラメール母』のなかでも重要なシーンではある。きっと酔余の一興、わたしが「ラメール」を「ふぁっく」とまちがえ、山中さんに伝えたに違いない。 上映会では、当時の脱走兵は「わたしたちはアメリカ憲法の精神に従って脱走する」とまことに感動的。ジェンキンス氏にその気概ありやなきや。当時の担当編集者水口義朗は、わたしが純文学といきごむ『ラメール母』の書評にいわく「これは新しい戯作文学だ」。 場所を居酒屋「おれんち」に移しての飲み会で、店主こころづくしの下町のナポレオン「いいちこ」を舐めつつ、一人つぶやく。 「ふぁっく・ラメール」 (「酒のペン」2004年8月5日号に掲載) |
「平和を叫び、歩いた44年
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「キリスト新聞6月26日号望楼」
6月9日、理論原子物理学者で中部大名誉教授の勝守寛さんが天に召された。
反戦の新聞人、桐生悠々と彼の父とが友人で、戦争中、何度となく発禁処分を受けた日の桐生の悲しそうな顔を覚えていると言っていた。 20年前、オハイオ大教授のチャールス・オバービー教授が中部大に彼を訪ねた。彼はB29のパイロットだった。勝守さんは彼を広島に伴った。オバービーは、原爆の悲惨と並んで日本に戦争を放棄した憲法があることを知った。 二人は「第9条の会」を立ち上げ、アメリカ憲法を修正しようと小さな歩みを始めた。昨年、自衛隊のイラク派遣討議のさなかに来日、釧路から沖縄まで講演して大きな反響を呼んだ。すでに勝守さんは長年の放射能の研究で肝臓がんに侵されていたが、クリスマスに受洗。オバービー博士は憲法9条と禎子の鶴の物語を英文で印刷したものを配った。 望楼子は2月11日の集会で、参加者と共に、これで千羽鶴を折り、この鶴は彼の病床に届けられた。 教授が愛知国際病院で天に召された日、加藤周一、大江健三郎、鶴見俊輔、梅原猛らが「9条の会」を結成した。 主が与え、主が取られた(ヨブ2・21)と感じるのは、キリスト者の私だけではなかろう。 |
「ペンは剣よりも強し」
陸上自衛隊の本隊がイラク入りし、国会も事後承認した。自衛隊員の安全も気にかかるし、家族の気持ちも大切にしたい。それと並んで日本の国際貢献と日本国憲法の平和理念の両立こそ、これからの最大課題であろう。
2月6日の日本ペンクラブ(井上ひさし会長)の緊急集会でも、浅田次郎は元自衛官として「わたしたちは、一発の弾丸も撃たずに、訓練に次ぐ訓練を重ねることこそ国を守ることと信じてきた。その本義を忘れたのか。そのような議論のないまま命をかける友人のことを思うといたたまれない」と自衛隊員の心を代弁した。 わたしの考えでも、武器を手にしたら、一歩たりとも他国に足を踏み入れない覚悟こそ専守防衛の証しではないか。ましてや一国の走狗のごとく国家百年の計をかなぐり捨ていいはずはない。わたしたち日本ペンクラブの声明。 「日本が敗戦により平和を得てから半世紀以上、日本の軍隊を海外に派兵することなく、武力を使って他国を侵略せずに今日まで来たことを、われわれは誇りに思う」 そんなとき、ペンの会員はやはり筆で意見を発表するのが基本と、吉岡忍君が『それでも私は戦争に反対します』(平凡社刊)を企画した。45人が応じ、浅田次郎からはじまって、養老孟司は「バカの首相」ではなかった「拝啓小泉首相様」、女優の渡辺えり子は「シャル・ウイ・ダンス」ならぬ「死体の上の演劇」。 おまえは「いろはカルタ」ならぬ「イラクカルタ」を書けといわれた。というのは、わたしはベトナム戦争の頃、野坂昭如のあとをついで、さる週刊誌にながく匿名コラムを連載した。名づけて「いろめがね」。わたしの次が阿刀田高で、期せずしてペンの3人の理事が、これで糊口をしのいだ。吉岡はそれを思い出したとみえる。この大事なときに、パロディとは不見識とのご意見もあろうが、狂歌や戯作で世の乱れを風刺するのも文学のはたらき。そこで、野坂が復刻して「わいせつ論争」を引き起こした永井荷風の作とされる「四畳半襖の下張り」をもじってみた。 さるところに久しく「筆は一本、箸はニホン」(斎藤緑雨の嘆息)ペンクラブとの札張りたる陋屋、イラ(な)クなった四畳半襖の下張りを剥がしてみれば、これが何とも怪しからぬ戯作、蟷螂の斧。ミミズののたうつがごとき草書をなぞれば、ぺんはけんよりつよし、とは「ペンは違憲より強し」とも、「ペンは派遣より強し」とぞ読めるならむいの国会ふみこえて、あさきゆめ。 |
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国際貢献についていえば、世界に圧政や貧困があるとき放置してよいはずはない。行って平和のために犠牲を払うのはいとわない。だが、身に寸鉄帯びず、言論の一点にかけ、平和をつくりだすことこそわたしたち文人の責務である。自衛隊員の安全と憲法の擁護を願いつつ、ペンはまこと剣より強い、と信じて。 |
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