アート都市/縦断(1)
 
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記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか?(1)
   
   
塔への身体的反応 

私にとって東京タワーは長いこと、それほど特別な存在ではなかった。ランドマークというとたとえば、あまり成果のあがらなかったパリ留学中に、住んでいたあたりからほぼ毎日目にしていたエッフェル塔や、その後3年間働いた群馬で帰宅の道すがらよく眺めていた榛名山などをすぐに思い出す。それらは、私の記憶の奥底に錨を下ろしている類のランドマークである。しかし東京タワーは、私の前半生の記憶とほとんど結びついていない。

学生時代にケヴィン・リンチの『都市のイメージ』
(1)を読んだとき、東京タワーは都市論的な意味でのランドマークとして機能していない、と思った。つまりこの本の中で試みているように、たとえば白い紙に、何も参照せず東京の地図を書くよう求められたら、まず山手線・中央線・総武線、皇居、東京湾、隅田川・多摩川などを書き入れてから細部を埋めていくにちがいないが、東京タワーから始める人はいないだろう。東京タワーはどこにあるのか、ほとんどの人間にとってよく分からない。たとえば渋谷の高層ビルからはもちろん見えるが、それではそこから電車なり道路なりで、どのようなコースをたどるとそこに行き着けるのかをすぐに説明できる者は、長年東京に暮らす人でもほとんどいないと思われる。

その点、エッフェル塔は正真正銘のランドマークである。セーヌ河畔の大きな公園の中にあるエッフェル塔は、対岸のトロカデロからこの公園を経て突き当たりのエコール・ミリテールまで一直線に伸びる軸の中心の位置に立っている
(a)。パリの人間なら誰でも、この街の白地図上にエッフェル塔の位置を指し示すことができるだろう。この塔はもちろん美しいが、それ以前にこの圧倒的なパノラマが美しい。そこに立つと誰しも、この壮大なバロック劇場の観客になり、言い知れぬ高揚感を覚えるのである。

そのようなエッフェル塔と比較してあまりに凡庸、と思っていた東京タワーに、ある種の親近感をいだくようになったのは、20年前に東京のいまのマンションに移ってからだったのではないかと思う。6階の私の寝室から、昼間は霞がかかっていてその存在にほとんど気づかないが、夜になって窓のカーテンを閉めようとするとき、はるかスカイラインのあたりにライトアップされたその姿が、疲れた私の目にしみこんでくる。

しかしあるとき、川本三郎が大分前に書いた文章
(2)を読んで、いささかめまいのするような感覚にとらわれた。1958年に東京タワーが建造されたとき中学2年生だった彼は、それが学校から「ほとんど目の前という感じで」立ち上がっていったときのことをこう回想する。「高さ三百三十三メートル。自立鉄塔としてはパリのエッフェル塔よりも高い世界一の高さ! そのことがうれしかった。休み時間になると冬の寒いなか屋上に行っては東京タワーを眺めた。(略)戦後の貧しい時代に育った私たちの世代にとってはこの東京タワーの完成は少年時代の大きな、大きな出来事だった」。

私がこの文章を読んで一瞬はっとしたのは、彼が中学生になった8年後に、私も彼と同じ中学に入学していたからである。それでいて私の記憶のなかで東京タワーにはヴェールがかかってしまっていて、くっきりとした姿を思い出せない。それはどのくらいの大きさで、どの方角に見えたのだろうか。

学校時代の私のいかなる大事な記憶も、喜びや悲しみも、東京タワーと結びついていない。春、校舎の屋上で文庫本の小説や詩を読みふけっていたときにも、校舎からグラウンドへ降りる大きな階段にすわってさまざまな思いにひたっていたときにも、それは確実に目の前にあったはずなのだが、ほぼ完全に記憶から失われている。

ある土曜日、思い立って母校へ行き、受け付けで了解を得てグラウンドに入れてもらった。はるか昔の忘れ物を取りにいく心境だった。そこに立ってみると、東京タワーは見紛うことなくその向こうにそびえ立っていた。なぜ私は、ほとんどすべてを忘れ去ったのだろうか。

しかししばらくして、少年のころの感覚が少しずつ体の底からよみがえってくる気がした。ただしその感覚ははじめ、東京タワーではなく、より近くにある六本木ヒルズのタワーによって喚起された。これはまるで巨大な軍艦のように、不自然なヴォリュームをもち、横柄で威圧的に見えたのである
(ちなみにこれは日本の甲冑をイメージしてデザインされたという)

1960年代中頃においては、東京タワーが東京で唯一の高層建造物であり
(b)、いま六本木のタワーに感じるものを、そのまま東京タワーに感じていたにちがいない。たぶん、少年のころの私は、東京タワーを見るというよりも、それに見られている気がしたのだろう。展望台はまるで巨大なミラー・サングラスで、見知らぬ大男がこちらを覗き込んでいるかのようである。この現実の距離と高さには、確実に人を圧迫し、不安にさせるものがあったように思う。東京タワーはむしろ、私の記憶のなかで抑圧され、消されていた、と言うべきだった。

人は途方もなく高い建造物を目の前にしたとき、複雑な感情をもつ。学生だった1970年代の初めごろに旅行で西ベルリンへ行き、東ベルリンのテレビ塔
(フェルンゼートゥルム)(c)を少し離れた場所から眺めたことがある。当時この都市にはまだ東西を隔てる高い壁があり、しかもその存在は絶対的なものだった。東から西へ強行突破しようとして射殺された者たちに捧げる花束が、西側の壁に沿っていたる所に置かれていた。そしてその壁の向こう、東側の空間を睥睨(へいげい)していたのがベルリンの塔だった。これは近づきがたいと同時に、人の脳裏に強く焼きつくランドマークだった。

1969年に建設され、365メートルの高さを誇るこの塔は、東ドイツ向けテレビ放送のためのものであり、そして西側のテレビが不都合な内容を流すとたちまち妨害電波を出すためのものでもあり、また当然軍事的な監視塔だったのだろうと思う。細くて途方もなく高い白い柱に銀色のボールをくし刺しにした印象的な姿をしているのだが、その未来派的な形態はむしろ、生身の人間からかけ離れたオートマティックな機械としての近代国家の表徴となっているように見えた。

塔を下から眺める人間が、望むときいつでも上から見下ろすこともできるのであれば、問題は小さくなるのだが、塔をめぐってはしばしば、見る者と見られる者の分裂した関係が生じる。集中式監獄の一望監視塔
(フーコーのいうパノプティコン)、アウシュヴィッツの監視塔…。いま宗教的な塔は措くとして、たとえば日本の城の天守閣にしても、江戸時代までの人間がそれを仰ぎ見て、「わたしの城下町」などとのんきに歌謡曲でうたっているような心持ちになったはずがなく、そこからはもっと威圧的でかぎりなく重いものが感じられたにちがいない。何層にも重なる天守閣は、まさに階層社会の象徴にほかならない。

もちろん東京タワーは権力者による監視塔などではないのだから、少し話が大げさであるかもしれない。しかしともあれ、建造物があまりに高く、ヒューマン・スケールとの比較はもちろん、ほかの建物や樹木などとの比較をも絶しているとき、人がそれに接近し、ある距離の圏内にはいると、その人のうちにきまって何らかの身体的反応がひきおこされるように思われる。その反応は一様ではなく、驚異、畏怖、憧憬、不安、苛立ち、嫌悪が織り混ざるアンビヴァレントなものであるにちがいない。現実の対象を見ているにもかかわらず、身体的反応を介してイリュージョンが生まれる。そうして記憶されたイメージは視覚的に形成された実像ではあるのだが、特殊な色付けがなされているといえる。

→続く


宮崎克己「記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか? アート都市/縦断(1)」『アートの発見』 碧空通信 2011/08/31
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(1)ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』丹下健三、富田玲子訳、岩波書店、1968年











(a)エッフェル塔とセーヌ河(絵はがき)、20世紀中頃
Coll. K.M.









(2)川本三郎「街角から見上げる都市の遺跡―東京タワー」『東京タワー物語』日本出版社、2008年





































(b)東京タワー(絵はがき)、1960年代中頃
Coll.K.M.




(c)東ベルリンのテレビ塔(フェルンゼートゥルム)とブランデンブルグ門 (絵はがき)、1970年代はじめ
Coll.K.M.