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記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか?(2)
   
   
テレビの自己イメージとしての東京タワー

こんにち東京タワーを訪れると、たくさんのみやげ物が売られているらしいが、エッフェル塔では桁違いに多くのみやげ物がつくられてきた。思い出してみるに、私がエッフェル塔というものを知ったのは、小学校の低学年のころ、パリを訪れた親類の者から、ミニチュア・エッフェル塔に寒暖計の目盛りをつけたみやげ物をもらったときだったと思う。日本の小学生の多くは、エッフェル塔がいかなる姿をしているか知らずに、ただ東京タワーがそれよりも高いという比較の対象としてその名を聞いていただけだったにちがいない。私はいきなり、みやげ物という、形あるものから入った。

奇しき縁で、学芸員になってしばらくして、エッフェル塔にまつわる展覧会の準備の仕事を与えられた。それはエッフェル塔百周年にあたる1989年に開催されたもので、エッフェル塔の図面、写真、絵画、当時のファッション、そして何百というみやげ物
(d)で構成されていた。エッフェル塔については私のうちにも、そのときすでに、何層もの記憶の沈殿ができていたのであり、その意味で学芸員として意欲の湧く展覧会だった。

その展覧会のカタログに私は、絵画においてエッフェル塔がどのように描かれてきたかについて文章を書いた
(3)。同時代のフランス人画家としてはスーラ、リヴィエール(e)、アイエ、アンリ・ルソーらがおり、日本人では黒田清輝と久保田米僊(f)がいる。それ以後もドローネー、シャガール、デュフィなど、とりわけモダン・アートの系譜の画家がこれをしばしばモチーフにしていて、エッフェル塔のイメージの伝播に一役買っただけでなく、そのイメージに「モダン」なニュアンスを与えたと思われる。

エッフェル塔自体は、フランス革命百周年にあたる1889年のパリ万国博覧会のための入場門としてつくられた。この塔に昇れば万博会場とパリ市街を一望でき、しかも300メートルの高さを誇る鉄製の建造物は、万博のひとつの柱である最新技術の展示をそれそのもので体現していた。19世紀後半は、西洋列強が国家意識をむき出しにしていた時代であり、万博はその表現であり、したがってエッフェル塔も同じ国家意識の表現だったといえる。

しかしエッフェル塔は、当初もっていた特殊な意味あいを急速に薄めていった。それは「国家」とも「最新技術」とも結びつかなくなり、パリ、とりわけ外国から見た「パリ」のシンボルになっていった。万博のときだけでなく平常時にも、膨大な数の観光客が押し寄せるようになり、彼らのために 無数のみやげ物がつくられたのである。エッフェル塔は世界中から人間を引き寄せる磁力をもち、フランス旅行のポスターの押しも押されもせぬ主役になったのである。

エッフェル塔のイメージは、まずは観光客たちによって、旅行という身体的な営みをとおして、身体的イメージとして形成されたといえる。そこには、現実の塔を目の当たりにした者の驚異がこめられていただろう。彼らがはるか遠方にいる者にもたらしたみやげ物には、たとえば寒暖計のスケールのついたミニチュア・エッフェル塔のように、しばしばその塔の高さへの驚きがパロディ化されていた。画家たちもまた、現実の塔を見ながらそこで生まれたイメージを画面に定着させた。このように、エッフェル塔のイメージが世界中へ伝播していくその源には、身体的なイメージ、身体的な行為があった。19世紀末においてはまだ写真製版は実用的ではなく、映画・テレビは登場していなかった。エッフェル塔のイメージは、手から手へという連鎖によって広まっていったといえる。

エッフェル塔の69年後に建造された東京タワーの場合は、まったくちがっていた。これはもともと、ベルリンの塔と同様、テレビの電波を送信する目的で建設されたのであり、「日本電波塔」がその正式な名称だった。展望台をつくって観光客を呼ぶのは、エッフェル塔から得たアイディアだったかもしれないが、あくまでも副次的なものだった。いずれにせよ東京タワーは、日本のあちらこちらで見かける電波塔の巨大化したものであり、エッフェル塔とちがって、それ自体が見られる対象となることを意識してつくられたのではない。

東京タワー完成の前後がちょうどテレビの普及期だったのであり、私の家にもその直前にテレビがやって来ていた。それ以前、私たちはときおり、近所のテレビのある家に行って見せてもらっていたことを覚えている。

東京タワーはテレビのための電波塔だっただけでなく、その姿が繰り返しテレビに映り、テレビを介してそのイメージが波及した。それはテレビをとおして広告されると同時に、テレビの広告塔だった。それはテレビの自己イメージだったのであり、テレビという身体なき映像のための身体の役割を果たし、それ自体映像として私たちに伝わってきた。

東京タワーはもちろん観光スポットとなったから、膨大な数の人間が観光バスに乗ってやって来た。それでもそのイメージは、身体によって形成されたというよりも、はるかに映像を介して形成されていたと思う。それはなかば以上映像の世界の存在なのであり、したがってそれを倒しにやって来たモスラ、ゴジラや多数の巨大怪獣たちと同類だった。

テレビ放送が始まって十数年のあいだは、チャンネルが少なく、番組もまた少なく、その内容は大衆的だったように記憶する。力道山、長島茂雄といった国民的なヒーローがテレビをとおして生まれた。大晦日には数千万人の日本人が紅白歌合戦というひとつの番組にかじりつくという、冷静な第三者が見ると薄気味悪いにちがいない社会現象が生じた。当然のことながら、テレビと一心同体の東京タワーにもまた、大多数がなびいていくような通俗性のイメージがまとわりついた。東京タワーは多くの人間の注目するところとなったが、長いこと誰も、それが美しいかどうかなど、問題にしなかった。

→続く

宮崎克己「記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか? アート都市/縦断(1)」『アートの発見』 碧空通信 2011/09/09
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(d) エッフェル塔の形のハサミ、20世紀前半


(3)宮崎克己「画家たちのエッフェル塔」『エッフェル塔100年のメッセージ[建築・ファッション・絵画]』群馬県立近代美術館など、1989年


(e)アンリ・リヴィエール「建造中のエッフェル塔、トロカデロからの眺め」『エッフェル塔三十六景』より、1888年頃



(f)久保田米僊「仏蘭西万国博覧会全図」『京都日報』1889年10月5日号