アート都市/縦断(1) |
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記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか?(3) |
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ヒューマン・スケールの時間 テレビは、刻々と過ぎ行く「現在」を化石化する作用をもつ。私の世代では生中継の記憶としてどうしても、1969年の人類初の月面着陸や1972年の連合赤軍あさま山荘事件などを思い出す。二十歳前後というのが、記憶の感光板の感度がもっとも高い時期なのだろう。(この3月に起こった東日本大震災のすさまじい悲劇を、私たちはどのように記憶していくのだろうか。まちがいなくこの記憶の共有もまた、ひとつの「世代」を形成していくだろう)。 東京タワー建造の2年後、1960年につくられた小津安二郎の映画「秋日和」(4)では、冒頭に東京タワーが映される。それはこのドラマがまさしく現代劇であることの表明であり、また少なくとも登場人物に典型的な現代風の人間がいることの表明でもある。この映画では事実、二人の主人公のうち一人、娘(司葉子)とその友人(岡田茉莉子)とが一方におり、もう一人の主人公である娘の母(原節子)とその亡夫の友人たち(佐分利信など)とが他方にいて、その二つの世代のものの考え方の差が、映画の重要なテーマになっている。映画がしばらく進行すると、清洲橋のショットが出てくるが、1928年竣工のこの橋(g)は古い世代の象徴であり、若い世代の象徴である1958年竣工の東京タワーと対比されている。 「現代」を体現していた東京タワーは、古びることをおそれていくつかの工夫をこらした。1970年に底部の建物内に蝋人形館が開設され、ときおり時代のシンボルとなるような有名人の蝋人形が追加されてきた。1989年には、石井幹子のデザインによるライトアップが始まり、その後も現代風な化粧直しを繰り返している。それまで「美しい」とは思われていなかったものが、美的な対象であることをめざし始めた。 しかしもちろん東京タワーは、生身の人間同様、次第に時間の流れについていくことができなくなっていった。それはまず、「テレビ」という機能面で明瞭になる。UHF局が出現しチャンネルが一挙に増え、またビデオが普及して、何千万人もの人間が同じ番組を見るような一点集中的なことが少なくなった。インターネットの開始は、双方向的な同時性の確立という意味で、より重要だった。そして衛星放送とともに、地上の電波塔を介さないテレビ放送が始まった。それまで他のメディアの追随を許さなかったものが、相対化されていったのである。 地上アナログ放送が終了し、まもなく東京スカイツリーが完成するとともに、東京タワーは近々テレビ放送の機能を最終的に失う。ロラン・バルトがエッフェル塔を「空記号」と呼んだ(5)のと同様に、いまや東京タワーは機能を失い、それそのものとなり、「意味」の岸壁から離れて自らの航海に出る。東京スカイツリーの出現によって東京タワーは後方へ強く押し出され、レトロの仲間にはいったのである。それとともに、いったん空記号となったものは、個人個人のあらゆる記憶のよりしろとなる。最近見たテレビニュースによると、東京タワーはいまやまたブームになり、少し前よりも多くの観光客が訪れているのだという。おそらくすべての者が、スカイツリーと東京タワーのあいだに時間の目盛りを設け、自分の過去を振り返っているのだろう。 気になって国会図書館のサイトで、題名に「東京タワー」のついた書籍を検索してみると、ヒットした51件のうち実に45件までが1990年以降のもので、さらにそのうち36件までが2000年以降のものだった。東京タワーは、かつてない驚くべきブームなのである。リリー・フランキーの小説『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(6)や山崎貴監督の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(7)(ともに2005年)などはそのもっとも顕著な表現といえるだろう。あらゆる東京の人間がいまや、東京タワーに自分の記憶を紡ぎ取らせている。 昼間の東京タワーに実際に近づいてみると、ライトアップの印象とはちがって、やはりかなり古めかしい。鉄骨に膨大な数のリベットが、海草に付着した無数の魚卵のように並んでいる(h)。この質感は、すでに私たちの身近にはなくなりつつあるものである。事実、リベットは東京タワー建造の数年後から使われなくなる。以後鉄骨は溶接とボルト止めの併用によって接合されるようになり、見かけははるかにのっぺりとシンプルになる。その点で東京タワーは、スカイツリーよりも清洲橋に近い。この橋はドイツのケルンの有名な橋(すでに失われている)をモデルとし、隅田川の橋としてはもっとも高額の建設費でつくられ、当時は誰しも知るランドマークだったのである。むき出しの鉄骨とリベットは、もはやある時代の象徴となった。 東京の景観は、あまりに早く変わってきた。江戸の大火の影響からか、東京の人間はもともと、変化にきわめて寛容で、変化をむしろ好む。古ぼけたものがなくなり、新しいものに置き換わるのを当然と思っている。だが最近になって、あまりの景観の変化に多くの人がついていけなく感じ始めている。私たちは、サバンナの環境から引き離され、檻に入れられたサーカスのライオンのように、たえず見慣れない風景に順応することを要求されている。しかし東京タワーは、この都市で真にめだつもののなかで唯一、五十年以上にわたって、そこにあり続けた。 東京タワーは、大きさこそヒューマン・スケールをはるかに超えていて、近くで生活する者に圧迫感を感じさせることもあるが、その五十年という時間は、まさにヒューマン・スケールである。東京タワーは近々、全国向けテレビから引退し、ローカルな文脈に戻り、個人それぞれの数十年という時間の物差しとなる。それが東京タワーの最大の存在理由となるにちがいない。東京タワーよ、田舎に帰れ! →続く 宮崎克己「記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか? アート都市/縦断(1)」『アートの発見』 碧空通信 2011/09/16 Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi 無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。 |
前頁 アート都市/縦断・扉 アートの発見・トップ (4)小津安二郎(監督)「秋日和」松竹大船、1960年 (g)清洲橋(東京)、1928年竣工 (1930年頃の絵はがき) Coll. K.M. (5)ロラン・バルト『エッフェル塔』宗左近・諸田和治訳、審美社、1979 年 (原著、パリ、1964年) (6)リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』扶桑社、2005年 (7)山崎貴(監督)「ALWAYS 三丁目の夕日」ALWAYS 三丁目の夕日製作委員会、2005年 (h)東京タワーの脚部(Photo: K.M. 2011) |