アート都市/縦断(1)
 
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記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか?(4)
   
   
ランドマークとしてのアート

現代の東京タワー
(i)は、夕方とか夜の一瞬、私の目に美しく映じることがあるが、多くの場合あいかわらずかなり散文的なものとして見える。それはおそらく、昼間見る東京の町並みがおそろしく散文的であるせいなのだろう。タワーの形状の問題もあるかもしれない。あと何十年かして、同種の電波塔がすべて退役し形が一新したら、それは清洲橋のように抵抗なく美しく見えるようになるのかもしれない。美しさとはかなりの程度主観的・相対的なものであり、同じものが人により、また時によりちがって見えるのは当然である。

東京タワーは、取り壊されることがなければ、いずれ清洲橋、永代橋などと同様に、国の重要文化財になるだろう。東京タワーを「アート」の作品ととらえる人はほとんどいないと思われるが、もちろんそうでなくても、歴史・技術・産業の重要な遺物は文化財として保存する必要がある。

ところで、エッフェル塔は世界遺産であり、「アート」として受けとめられている。16世紀に西洋で確立したアートという概念のなかで、建築は絵画・彫刻とともにその中核のジャンルだった。ただしその場合の建築とは、西洋の古典主義にのっとったものを指しており、建造されたころのエッフェル塔は建築とはみなされず、猛烈な反対運動をまきおこした。考えてみるに、ギュスターヴ・エッフェルがつくったなかでエッフェル塔以外のほとんど、数多くの鉄道の橋梁
(j)などは、いまもってアートとみなされていない。それはともあれこんにち、エッフェル塔が記述されていない西洋建築史概説は存在しないといってよく、これがアートであることに疑問の余地はない。

エッフェル塔の周囲には、無数のアートと無数の非アートがひしめいている。これをモチーフにした絵画はアートであり、版画もおおむねそうだろうが、同じような技法でも印刷物になるとたいていアートと見なされない。エッフェル塔を撮った写真にもアートと非アートがあり、みやげ物になるとほとんどアートと呼べなくなる。私は美術史家
(アート・ヒストリアン)を自認する者であり、アート/非アートの領域のあいまいさにいつも興味を引かれる。たしかに、なぜエッフェル塔がアートで東京タワーがそうでないと言えるのか、などというのは、ふつうの人間にとってどうでもいい問題であるにちがいない。しかし、かなりの程度主観的なものである「美しさ」とちがい、「アート」は人間たちのあいだの共通認識の問題であり、また制度的なものでもあるのだから、一考の価値がある。

アートとはふしぎな概念であり、歴然と存在するにもかかわらず、定義がきわめてあいまいである。その集合に包含される要素
(つまり作品)を明瞭に規定したり、その領域の境界の線引きをしたりすることが不可能に近い。アート作品は不明瞭なアート領域の中で明瞭な目印となるような存在であり、その点で、ランドマークと呼ばれる存在と似通っている。エッフェル塔があればそこは紛れもなくパリなのだが、その周囲に広がるパリという領域そのものは、そこに立つ者には範囲を説明しづらい。エッフェル塔は同様に、まちがいなくアートなのだが、その周囲に広がるアート/非アートの境界もまた、茫洋としていて説明しづらい。

アートはまた、しばしば時代を区切る目印になり、その点でもランドマークと似ている。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》は、都市空間の中のランドマークではないが、ルーヴル美術館のシンボルであり、パリという都市のシンボルとなっていて、しかも現在から約五百年前という長い時間を測るための目印ともなっている。

美術史家として私は、アートとしての作品の表現内容を読み解くことに強い興味をもつのだが、それだけでなく、つねに自らの身体とモノとしての作品とを対峙させることから生まれる緊張感を大事にしてきた。たとえば、セザンヌの絵の2メートル手前に立ったとき、その現実の距離は、東京と南フランスのあいだの1万キロという空間、そして現代と19世紀末のあいだの百数十年という時間を想像するための契機になる。私はある一瞬、ちょうど夜空を見て何億光年の宇宙を感じるように、大きな時空の座標軸のなかに自分の身体を置くのである。アートの作品は、そうした想像上の座標軸の中のランドマークと言えるだろう。

記憶のない幼児期を除くと、私の生きてきた長さのほぼすべてを、1958年の東京タワーから2012年竣工予定の東京スカイツリーまでの54年間が占めることになる。東京タワーを中継点としてその前のランドマーク、エッフェル塔までの時間的距離は69年、これは私にとってすでに歴史上の時間だが、長さとしてはほぼ人生のそれに匹敵する。

思うに私は二十歳を過ぎたころから19世紀末のフランス美術を勉強しているのだが、こうして三つのランドマークを並べてみると、エッフェル塔は意外にもすぐ近くにあったという感慨にとらわれる。そして同時に、エッフェル塔の時代から急激に遠ざかっているとも実感する。

美しいかどうか、内容が豊かであるかどうかということがアート作品の質の高低を測る目安であるのはたしかだと思う。しかし私には、巨大な時空のランドマークとなっており、それを通してその地域、その時代をありありと想像することができるような作品は、それだけでアートの名にふさわしいように思える。


アート都市/縦断(1)記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか? 完
続く→アート都市/縦断(2) 日本にやって来た西洋〜その分布の変位

宮崎克己「記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか?  アート都市/縦断(1)」『アートの発見』 碧空通信 2011/09/23
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(i)現代の東京タワー、六本木の路上から
(Photo: K.M. 2011)




(j)建造中のガラビ高架橋(エッフェルの設計)、1882年竣工