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日本にやって来た西洋~その分布の変位(1)

   
   
西洋文化は日本を席巻したか?

私は今年、ある大学で文化交流史の授業を受け持っているが、その最初の回に学生たちにこう質問した。この教室にある製品で、江戸時代以前の多くの日本人がすでに使っていたものとして何があるだろうか、と。

学生たちは皆、あたりを見回して点検を始めた。机、椅子、ノート、筆記用具、シャツ、ズボン、スカート、カバン、靴、黒板、チョーク、窓ガラス、壁、床...。しかしなかなか見つからない。

しばらくして「紙」という声があがる。そう、それは悪くない。紙といってもノートや本は洋紙だが、皆の財布にまちがいなくはいっている日本のお札は和紙なのだから。

とはいえ、紙は「製品」というより「半製品」、いやむしろ「素材」と呼ぶべきものだろう。いったん製品ではなく素材に目を向けると、この教室にも鉄、銅、木、木綿、麻、絹など、いくらでも出てきてしまう。ちなみに、米、胡椒、唐がらしなど食材を含めた素材の伝播は、大航海時代までの世界文明史の中心的なテーマともいえるだろう。しかしともかく、私が扱おうとする近世・近代の文化交流史では、素材よりも製品やその製法が問題になってくる。

製品となると、この教室にあるものであげられるものは数少ない。私が用意していたひとつの答えは、眼鏡だった。たとえば歌麿に「教訓親の目鑑
(めがね)」という、当時の基準からすると品行方正と言いがたい若い女性たちを描いた、なかなか面白いシリーズがある(a)。その中のいずれの浮世絵にも、右上に眼鏡がたくみにデザインされている。

眼鏡はもともと、13世紀末頃にヴェネツィアで発明されたらしい。これを日本にもたらしたのは、1549年に来日したザビエルだった。彼は山口の領主・大内義隆に、時計、オルゴール、銃、望遠鏡、織物、ぶどう酒、書籍、絵画などとともに眼鏡を献上した。その後、社会史的には銃ほどの重い役割を果たさなかったものの、この眼鏡が確実に日本に定着したことは、1603年の日葡辞書からもわかる
(1)。そのMeganeの項目によると、その時点でこの語には二つの意味があった。ひとつは、ここで問題にしているレンズによる視力補助具であり、もうひとつは「記憶力」という意味だった。おそらく後者から、こんにちでも「おめがねにかなう」などと使われるように、「鑑識力」「判断力」という意味に転じていったのだろう。歌麿の「教訓親の目鑑(めがね)」は、「眼鏡」と「鑑識力」のふたつの意味を掛けていたことになる。

眼鏡は江戸時代初期までに日本でもさかんにつくられるようになり、滝沢馬琴、佐藤信渕、頼山陽らが愛用したらしい。西洋から来たもので、外来語でも中国的な音読みでもなく、和語をあてているのは珍しく、そこにも眼鏡が日本に定着した様子がうかがえる。

さて、眼鏡の蘊蓄話は、単なるわき道にすぎない。結局のところ、教室にあるのはほとんどが明治以降に西洋から日本に到来したものであり、例外である眼鏡も、もとをたどると西洋から来たものだった。まちがいなくこうした事態は、大学だけでなく、高校でも小学校でも、日本のあらゆる教室であてはまるだろう。

教育の場だけでなく、官庁・会社の事務室、図書館・公会堂・駅舎などの公共建築内では、日本に由来する物を見つけるのがかなり難しい。

もちろんないわけではない。役所では依然として、判子が重視されている。またサラリーマンの机には湯飲み、扇子もよく見かけるし、ひと昔前ならそろばんもあっただろう。

しかしいったん家に帰ると、古くから日本にあるものを見つけるのは、それほど難しくなくなる。もっとも東京では、畳、床の間、縁側などのある家に住んでいる人はもはや少数派であって、かく言う私のマンションにもそれらはない。二、三十年くらい前までは、つねに和服で過ごす女性が少なくなかったし、男性も帰宅後に和服に着がえるものだったが、今ではそうした光景もほとんど見かけなくなった。

おそらく衣食住のなかで日本古来のものを見つけるのがもっともたやすいのは、食の分野においてだろう。茶碗、汁椀、箸といった食器、醤油などの調味料、そしてもろもろの日本料理そのものがあり、一日に一度も箸を使わない日本人、一度もご飯を食べない日本人はかなり稀であるにちがいない。大学の教室にだって、もしかすると誰かのカバンの中に、コンビニで買った弁当があり、そこには米の飯、漬け物、箸、爪楊枝が含まれているかもしれない。ペットボトルには日本茶がはいっているかもしれない。

そば屋、寿司屋に行けば当然、日本の物がかなり見つかるはずだし、ちょっとした料亭や旅館になると、食事はもちろん、床の間、掛け軸、和服など日本伝統の物が一揃いある。

食以外の分野では、茶・花・唄・三味線など芸事の世界、柔・剣・弓など武道の世界に当然、濃厚に日本固有の物があるし、寺院、神社は西洋的であることをもっとも嫌う領域であるにちがいない。

このように日本と西洋それぞれに由来する物の分布を考えたとき、「場」によってそれぞれの濃淡が大きく変わることに気づく。その室内において教育、事務、食事、芸事、礼拝などのうちの何がなされるかによって、使われる道具は大きく変わり、場合によっては日本のものが主役になるのである。

しかしあらためて全体を見渡し、ひとつひとつを数えれば数えるほど、いかに私たちの生活が西洋由来の品々によって満たされているかを実感する。日本のものが食の分野に濃厚に残っているといっても、どの家庭でも和食だけでなく、ハンバーグ、スパゲッティ、サンドイッチなどをつくり、フォーク、スプーン、フライパンを使っているのであり、日本料理は選択肢のひとつにすぎなくなっている。また芸事や宗教の空間は、閉鎖的な特殊世界である。そして高級料亭・旅館などに行くのはもちろん非日常のことであり、それらは私たちにとってほとんどミニ・テーマパークといった存在である。

現代日本の文化・生活は西洋文化に満たされており、日本古来のものは、周辺や非日常の空間・時間に押し込められているように見える。それはあたかも大雨のあとの水たまりのように、かろうじて、ひっそりと残っているにすぎないようである。民族大移動の結果、先住民族が分裂し、小さなまとまりになってあちらこちらの辺境に追い込まれているのと似ていなくもない。日本は西洋文化に席巻されたのだろうか。


→続く


宮崎克己「日本にやって来た西洋~その分布の変位 アート都市/縦断(2)」『アートの発見』 碧空通信 2011/09/30
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(a)喜多川歌麿《教訓親の目鑑 ばくれん》(部分)18世紀末、慶應義塾




(1) 眼鏡については、主として次の文献に拠った。キアーラ・フルゴーニ『ヨーロッパ中世ものづくし—メガネから羅針盤まで』(岩波書店、2010年)、河野純徳『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』(平凡社、1988年、248頁)、土井忠生・森田武・長南実・編訳『邦訳 日葡辞書』岩波書店、1980年。