アート都市/縦断(2)
 
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日本にやって来た西洋~その分布の変位(2)

   
   
都市における棲み分け

私たちの周辺の室内で、日本に古くからある物と新しく到来した物がそれぞれどのように分布しているかをざっと眺めてみたが、ここでいくぶん視野を広げ、室内だけでなく都市空間、さらには日本全体の領域でどうなのか、という観点で少し考えてみよう。そしてまた、西洋化が進行していった時間的経過のなかで、分布はどのような変位を見せたのか、について考えてみよう。

戦前までの建築は、日本式であろうと西洋式であろうと、内部の機能を外側に表現するものだった。住宅は住宅、店舗は店舗の外観をもち、同様に市役所、銀行、デパート、ホテル、美術館はそれぞれそれらしい外観をもっていた。そして各々の室内で、日本建築はおおむね日本の道具で満たされ、西洋建築は西洋の道具で満たされていた。そのような物の分布がこんにちにまで残っており、大学の教室や会社の事務室では日本に由来する物がほとんど見つからないのである。

現代の東京では、室内の機能が建築の外側に表現されることが大幅に少なくなり、すべてが無表情の近代建築に包含される。六本木ヒルズや東京ミッドタウンの巨大なビル群には、事務所、ホテル、マンション、スーパー、フレンチ・レストラン、料亭、そば屋、美術館、カルチャー・スクール、図書室などがはいっているのだが、建物外にその存在をうかがわせるものはほとんどない。

ときおり訪れる倉敷で、白壁の古い街並みのあいだを抜け、まぎれもない西洋建築であるあの大原美術館の正面に立つとき、私はつねに、ある種の感慨を抱かずにいられない
(b)。もともと日本建築だけで埋まっていた街並みのなかにある日、西洋建築が出現した、その最初の驚異と期待とが、あの風景の中にそのまま定着しているように思える。ギリシャ神殿風のファサードをもつあの建物は1930年のものなのだから、いわゆる西洋建築としてはかなり時代遅れといってよい。しかしそれでも、これは西洋絵画を収めた日本初の美術館だったのだから、この景観のうちに、「日本」というコンテクストのなかにやって来た「西洋」を読み取るのはまちがっていないだろう。ここでは「西洋」が「日本」に照らされ、「日本」が「西洋」に照らされている。

さて、倉敷に限らず古い街並みの残る多くの地方都市で、その街並みとその後出現した西洋建築との関係を観察すると、けっして、強権や圧倒的な資本が前者をなぎ倒し、一挙に後者が占めていったようなことはなく、都市の近代化がふしぎな共存の暗黙の了解のもとに進んでいったように感じられる。

明治以降の西洋建築は、同時代のアジア、アフリカの植民地だった国の西洋建築と見かけはそれほど変わらない。しかし日本の場合、あくまでもつくる主体が日本人だったことがそれらの国と大きく異なる。日本の西洋化・近代化は、中央の主導によって強力に押し進められたが、たとえば慶応義塾や同志社などに残る明治建築を思い出せばわかるように、政府に距離を置く者たちも西洋化を推進したし、各地に残る擬洋風の小学校校舎などに見られるように、地方もその主体となった。西洋化は外から、上からの強制ではなく、内から、下からの熱意によって進められたのであり、それゆえほとんどの場合に在来のものと共存しようとする明確な意思がともなったのである。そこに日本独特といってよい、棲み分けの様式が成立したと考えられる。

都市計画の規模での日本と西洋の棲み分けの事例として私が思い出すのは、昨年NHKテレビで特集されてかなりの反響を呼んだ南禅寺界隈別荘群である。これは明治23年
(1890年)に第一期工事が完成した琵琶湖疎水の、当初想定されていなかった果実だった。いま南禅寺の境内にレンガ造りの堂々たる水道橋として姿を見せる琵琶湖疏水は、いうまでもなく京都の近代化・産業振興のためのものだった(c)。明治になって荒れ果てていた南禅寺周辺の塔頭には、当初この疎水を水車動力として利用する織物業の工場が予定されたのだが、疎水によって水力発電をすることになり、この近辺に工場を立地する必要がなくなった。その代わりとして浮上したのが、ここを最高の別荘地域にする構想であり、それを当時の京都のみならず東京の政財界の有力者たちが強く後押ししたのだという(2)。以後ここに20世紀の初頭、数寄屋造りの純日本建築と小川治兵衛がその多くを手がけた日本庭園からなる宏大な別荘が、15ほどもつくられたのである。

私はかつて、何も知らない学生だった時分に、そのうちのひとつ、ややこぢんまりとしたものではあったが、東山の懐に抱かれたひそやかな場所に、古建築を移築し磨き上げた家と小ぶりだが充実した日本庭園のある別荘に一泊させてもらう機会があり、日本人にとっての桃源郷とはこのようなものだったのか、と感動したことがある
(現在、これらの別荘は残念ながらほぼすべて非公開である)

この別荘群は、明治から大正という時代に「西洋」を前にしてつくりあげられた「日本」だった。それは意識化され、純粋化され、極限まで洗練された「日本」だった。そしてそれは、工場の代わりに設けられ、「西洋」との棲み分けの結果つくられた「日本」だった。そこには同時に、東京との棲み分けの意識もあっただろう。その別荘の主の多くは、東京の有力者だったのであり、政治の中心であり西洋化しつつある東京と、日本文化の故郷としての京都、というような対比が頭のなかにあったにちがいない。

明治から大正にかけての中央政財界の指導者たちは、西洋建築の事務所をもち、西洋の道具に囲まれ、洋装で仕事をしていたが、よく知られるように自邸には洋館と和館を併設させていた。たとえば東京湯島に現存する岩崎久彌邸
(茅町本邸)(d)では、コンドル設計の洋館に、以前は広大な和館が隣接していた。いまでも広間など和館の一部が残っているが、かつてそれは建築面積で洋館の3.5倍の規模を誇っていたという。洋館はもっぱら西洋人を含む来賓の応接の場として使われ、主人、使用人たちは、規模・構成などにおいて大名屋敷を思い出させる和館に住み、日本式の生活を営んでいたのである。

京都南禅寺界隈の別荘の多くは純日本式だが、たとえば大磯あたりの別邸では、しばしば和館・洋館併設の形式をとった。それらの主である貴顕紳士らは、日本、西洋の棲み分けを、何段階にもわたって実践していたことになる。

→続く


宮崎克己「日本にやって来た西洋~その分布の変位 アート都市/縦断(2)」『アートの発見』 碧空通信 2011/10/07
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(b)薬師寺主計(設計) 大原美術館、日本家屋の向こうに見える美術館の正面、1930年竣工
















(c)琵琶湖疏水・水道橋、1890年、京都・南禅寺
(Photo: K.M.)




(2) 主とし次の文献によった。矢ケ崎善太郎「南禅寺下河原/京都 近代の京都に花開いた庭園文化と数寄の空間」『近代日本の郊外住宅地』片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編、鹿島出版会、2000年。












(d)旧岩崎邸 右にコンドルによる洋館(1896年)、正面に和館、東京湯島 (Photo: K.M. 2011)