アート都市/縦断(2)
 
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日本にやって来た西洋~その分布の変位(3)

   
   
西洋絵画を受け入れる条件

印象派絵画などを中心とした西洋絵画が日本という国に、また東京や大阪などの都市に、そして富裕層の室内に、どのようにやって来てどのように受容されたか、このことをテーマに、私は数年前に一冊の本を書いた
(3)。その中で触れたことだが、日本に西洋建築が熱烈に受け入れられていた19世紀後半の文明開化から20世紀初頭の日露戦争頃までの間、西洋絵画の方はけっして歓迎されたわけではなかった。

同じ19世紀後半に、西洋では海を渡っていった日本の美術工芸品がブルジョワジーのあいだで愛好され、印象派・ポスト印象派に影響し、大ブームといえる様相を呈していた。ジャポニスムと呼ばれるこの社会現象のおこっていた同じ頃、日本側では西洋美術を愛好する姿勢は、まだほとんど広まりを見せていなかった。

明治政府はまったくと言っていいくらい、西洋絵画を輸入する発想をもたなかった。せいぜいのところ、来日西洋人や日本の洋画家に政治家などの肖像画を描かせ、それを大臣室や議事堂に掛けるくらいだった。「官」が、当時フランスなどで著名だった画家、カバネル、ブグロー、メッソニエなどの絵を購入し、それで公的な空間を飾ったという記録は見つかっていない。国費を使ってマネ、モネ、セザンヌなどの絵を買うようになるのは、100年ものちの20世紀後半のことになる。

西洋から輸入された絵画を壁にかけるというようなことは、銀座の煉瓦街
(1873年竣工)にも、官庁・会社の会議室にも、図書館・公会堂など公的建築内にも見られなかったし、私的生活の場である日本家屋にも見られなかったようである。

わずかに日本に到来した西洋絵画のほとんどは、洋行者が持ち帰ったものであり、彼らは洋館をつくり、そこにそれらを飾った。西洋絵画の受け皿となったのは、洋館という接待のための特別な場にほぼ限られていた。すなわち大多数の西洋絵画は、これらエリートたちの西洋的な執務空間でも日本式の生活空間でもない、その中間にあった一種隔離された空間に置かれたのである。西洋人は日本の友人に招かれるとき、ほとんどつねに洋館に案内されたのであり、和館に招じ入れられることはなかった。それと同じように、西洋絵画も、いわば敬して遠ざけられていたといえる。

西洋絵画に対する日本人たちの、ほとんど後ろ向きといっていい姿勢は、20世紀初頭になって急速に変わっていく。

洋行者ではない日本人が、海外のある著名な画家に強い関心をもち、国内にいながらその作品の購入を実現したもっとも早いケースのひとつとして、1913年、渡仏した日本人画家を介してルノワールに直接作品の制作を依頼した大原孫三郎の例が知られている
(翌年、日本に到来)(e)。それ以前、林忠正がパリで日本美術の画廊を開き、印象派画家たちとも交遊し、西洋近代絵画の大コレクションを築いていたが、それはあまりに早いコレクションだったのであり、1906年に彼が死んだのち日本でほとんど買い手がつかず、大部分がアメリカで競売に掛けられて散逸した。

第1次世界大戦が終結する1918年以降、松方幸次郎をはじめとする数十人の日本人実業家がヨーロッパを訪れ、印象派・ポスト印象派を中心とするフランス近代絵画を大量に買い込んだ。北斎による《富嶽三十六景、神奈川沖浪裏》の有名な大波のイメージは、19世紀後半に西洋で巻き起こったジャポニスムの大波の象徴ともなっていたが、いまや逆方向の、「泰西名画」の大波が日本にやって来たのである。

なぜこの時期にいたって、日本における状況が急転したのか、そこにはいくつかの理由が複合していたと思われる
(4)。一つは、日本の経済力が増し富裕層が増加して、西洋絵画の名品が個人にとって手の届くものになったということがあった。そしてまた一つには、日清・日露戦争を通じて、日本人の西洋コンプレックスが少しだけ解消し、いままで受け身一方で接してきた西洋文化に、主体的に向き合うことができるようになったことがあるのだろう。

もう一つ、私が重要と考えるのは、西洋美術そのものが19世紀後半という時期に、決定的な脱皮を果たしたということである。1863年、マネによるあの《草上の昼食》が「落選者展」でスキャンダルをおこしたとき、サロンで評判になっていたのはカバネルの《ヴィーナス誕生》だった。西洋では、神話・聖書・歴史のなかの偉大なる物語を題材にした「歴史画」こそが、絵画のあらゆるジャンルのなかでもっとも上位に位置していたのである。1887年になっても、ナポレオン戦争の歴史を描いたメッソニエの《1807年、フリートラント》が絵画の最高値を更新し、30万フランで売れている。

モネ、ルノワール、ドガらの印象派は1870年代に運動としてのピークを迎えるが、彼らの絵がいちおうの評価を受けるようになるのは、1890年代だった。もっともこの頃に評価が高まったのは、19世紀前半以来さかんになってきていた風景画全般だった。たとえば、純粋な風景画ではないが、ミレーの《晩鐘》は1889年に50万フランをつけて、メッソニエの記録を大幅に塗り替えた。

それまでアカデミックな画壇において中心的な位置を占めていた歴史画は、国家的・宗教的な思想、西洋固有のイデオロギーに満ちていた。そうしたものは欧米で急速に勃興しつつあったブルジョワジーが、自分の家に掛けるのにあまりふさわしくなかった、といえる。彼らは、イデオロギーよりも「装飾」を望んでいたのである。

日本の美術工芸品はもっぱら、西洋のブルジョワジーの私的空間の装飾として取り込まれていった。日本のもののなかでも宗教美術や水墨画のような、一見して思想性の存在をうかがわせるものは、西洋ではほとんど受容されなかった。日本美術においても、どんな作品にもそれなりにイデオロギーが込められているものだが、それをほとんど無視しうるような作品、金碧濃彩の屏風やとりわけ美しい女性のいる風俗を扱った錦絵が好まれた。

美術の意味内容や物語性を希薄にし、イデオロギー性をできるだけめだたないものにし、色や形の面白さを究め、装飾性をめざしていった近代絵画の軌跡は、まさにジャポニスムと並行していた。近代絵画は造形としてジャポニスムの影響を受けるとともに、日本の美術工芸品と同様の装飾をめざしたのである。

日本で西洋絵画が受け入れられるための条件として、脱イデオロギー絵画としての近代絵画、とりわけ印象派が、西洋でも評価されることが必要だった、と私は考える。近代絵画は、日本などの影響を取り入れ、西洋固有の神話・宗教・歴史の衣を脱ぎ、万人に理解可能な色彩・形態の造形を生み出そうとした。そのときはじめて、日本人一般に西洋絵画の愛好者が出現したのである。日本人がはじめて西洋絵画に目を開かれたとき眼前にあったのが印象派だったのであり、私たちの印象派愛好の発端は、そのとき以来だったといえる。

→続く

宮崎克己「日本にやって来た西洋~その分布の変位 アート都市/縦断(2)」『アートの発見』 碧空通信 2011/10/14
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(3)宮崎克己『西洋絵画の到来』日本経済新聞出版社、2007年






































(e)ルノワール《泉による女》1914年、大原美術館










(4) このあたりの事情については、次の文献でより深く掘り下げた。宮崎克己「フランス絵画の到来-林忠正から松方幸次郎まで」『日仏芸術交流の150年』三浦篤編、三元社、2011年(刊行予定)。