アート都市/縦断(2)
 
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日本にやって来た西洋~その分布の変位(4)

   
   
西洋の偏在/近代の遍在

明治・大正の日本人は、都市や建築のレベルにおいて、細心の注意を払って西洋と日本の棲み分けを工夫し、また西洋絵画を慎重な姿勢で受け入れていった。西洋文化の受容は一面できわめて迅速かつ積極的、他の一面においてきわめて思慮深く選別的だった。いずれにせよ、そこには日本の側における主体性を見て取ることができた。

その後、東京・横浜では関東大震災と第2次世界大戦によって都市景観が大きく変わり、この地域では「棲み分け」どころか、街並みの中に江戸時代以前の建物を見ることがかなり稀になった。軍国主義の時代、さらに戦後の占領期と続くなかで、日本人の西洋への姿勢もまた大きく揺れ動いた。そして現在では最初に述べたように、身の回りのモノの分布を見るかぎり、西洋由来のものは日本に満ちあふれている。

モノという観点を離れて、たとえば民主主義などといった思想、たとえば議会制度などといった制度、あるいはまた電気・ガス・鉄道などといった社会基盤に目を転じると、日本をおおう西洋の度合いは一層大きいようにみえる。それでは結局のところ、西洋文化は日本を席巻したのだろうか、日本文化は大雨のあとの水たまりのように、分断され孤立しているのだろうか。

私は美術史家として、目に見えるものから出発することを基本姿勢としている。その発想の限りで、西洋に源をもつ文化が私たちの生活や社会の基盤となっており、私たちが日本古来の文化から一層離れつつあるのを、もはや率直に認めざるを得ない。しかしそれでも、「西洋文化が日本を席巻したか」と問われたなら、私は、なかなか首肯できないように思う。そこには私の願望も混ざってしまっているのかもしれないが、ともあれ私の視野には、首肯を躊躇させる少なくともふたつの問題点がある。それらは、たいへん大きな事柄なのだが、あえて簡潔に、一種のメモとしてここに記しておきたい。

第一に、いくら西洋文化が強力でも、日本語という言語の基本的な構造が変わることなく存続してきたという事実がある。そもそも日本語の構造は、古代以来の長大な中国文化受容期を経ても、かなりの程度一貫していたようにみえる。ヴォキャブラリーとして膨大な数の漢語を取り入れ、近代には西洋語がさらに多数加わったが、それでも私たちは万葉集を読んで、まったく外国語とは感じない。

現代においても、独自の言語をもつ少数民族はたくさんあるのだから、言語の独自性が社会的・文化的な自立をそのまま示しているとはかぎらない。とはいえ日本の場合、国外からのこれだけ大きな影響にもかかわらず、その言語が長期にわたって基本構造の一貫性を保っていることは重要である。日本語にはいわば柔構造があり、それが外部からの影響をものともせず本質を持続させる強さをもたらしているように思える。

こうした日本語のあり方は、もしかすると日本文化のなかで、ほかの領域にも見出しうるかもしれない。文化人類学や社会学においては、日本人が靴を脱いで家にあがったり、風呂桶の外で体を洗ったりする行動の背後に、身体をめぐる日本人の行動規範、一種の言語性を見出そうとする研究もある。

美術の領域においては明治初期以来、日本画と洋画が競合を続け、しだいに洋画が勢力を増して、現代アートに流れ込んだように見える。そうした状況とは別に、私は、日本の美術全体のなかで、日本語と同様の柔構造をもった視覚言語を見出しうるのではないかと考えている。たとえば装飾感覚や空間意識にそれが言えるだろうと思うのだが、それらについてはまた別の機会に述べることにしたい
(『空間のジャポニスム』はそのひとつの解答になるだろう)

私が「西洋文化日本席巻説」に首肯しがたく思う二つ目の問題点は、「西洋」と「近代」がけっして同一ではないということである。

すでに触れたように、19世紀後半の西洋において、それまでの思想性・イデオロギー性の濃厚な絵画から、印象派絵画のように、色彩などの造形が前面において主張する絵画へ移行していった。西洋独自の神話・宗教・歴史は後景へと退き、日本など異国の造形をも取り入れてより国際的・普遍的な芸術が生まれていった。それが「近代」の絵画だったのである。

建築においても、ギリシャ神殿風の列柱をもつ古典主義様式は、20世紀になって急速に少なくなっていった。グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエらの近代建築は、もはや西洋固有の体臭をもっていない。このように「近代」は「西洋」から生まれたのだが、いったん近代になったとき、その文化はもはや西洋文化ではない、といってよい。ル・コルビュジエの設計による上野の国立西洋美術館
(f)は、倉敷の大原美術館(b)とちがい、「西洋」美術館というよりも、「近代」美術館の顔をしている。

日本は1904-05年の日露戦争において、すでに西洋の一角である大国と、ほとんど対等に渡り合うことができた。それまでの半世紀で日本は、西洋の技術・制度を学びつつ富国強兵を実現していた。そしてこの戦争のあと日本人たちは、積極的に、確立しつつあった世界の近代文化に参加していったのである。

日本人のそうした志向にもかかわらず、西洋人からすると1920年代にはまだ、日本人たちは西洋のはるか遠方からの外来者にすぎないように見えたにちがいない。しかし20世紀後半になると、建築・ファッション・映画などの分野で日本人の活躍はめざましく、日本が世界のコンテンポラリーな文化に参加していることは誰の目にもあきらかになった。

私たちにとって、もはや「西洋」という異物感のある存在は過去のものになったのだろう。現代東京の都市景観は、近代的であってもけっして西洋的なのではない。「近代」は空気のように遍在しており、もはや対象化することもできない。日本/西洋という極性は意識にのぼらなくなり、意識にのぼるのは近代/伝統の極性である。そしてその「伝統」のなかに古き日本もかつての西洋もはいっているのである。

このような「近代」は、もちろん世界のほとんどの地域に行き渡っている。テレビ、携帯、パソコンといったものを日本人は外来の科学技術の最新版と思っているが、ヨーロッパではそれらをアメリカ、そして日本など極東から来たものと思っている。近代の文化とは、誰にとっても自分たちの国の固有文化とは受けとめにくいのであり、近代文化をうみだした「主体」を規定するのは難しい。西洋は偏在したが、近代は遍在するのである。
 
ところでここで、「近代」がそのまま「現代」なのか、というあらたな問題があらわれる。日本人にとって、「近代」と「現代」の境目は明瞭ではない。もし日露戦争が「近代」への入り口だったとすると、それからもはや一世紀以上がたっていることになる。しかし角度を変えて見るなら、そのとき日本は西洋とならんで近代の帝国主義に参加したのだとも言える。日本人にとって「近代」は普遍的な「世界」であり、すでに空気のごときものに受けとめられていたとしても、アジア・アフリカの大多数の国からは、日本が「西洋」の仲間入りをしたように見えたにちがいない。文化において真に世界をおおう領域が成立したのは、「近代」においてではなく、グローバルな一体性を実現した「現代」においてだった、ということも忘れてはならない。

「日本にやって来た西洋~その分布の変位」完

宮崎克己「日本にやって来た西洋~その分布の変位 アート都市/縦断(2)」『アートの発見』 碧空通信 2011/10/21
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(f)ル・コルビュジエ 国立西洋美術館(東京)、1959年竣工 (Photo: K.M. 2011)