ルノワールの造形~セザンヌとの関係において (2)
 
アートの発見

 
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文庫(1)
(初出)『ルノワール 異端児から巨匠への道 1870-1892』
(展覧会カタログ)ブリヂストン美術館など、2001年

   
   
ヴォリューム

1870年から90年頃までのルノワールの軌跡をたどると、ヴォリュームをめぐってこの画家が一方の極から他方の極へと大きく揺れていることに気づく。1870年のサロンに入選した《水浴する女とグリフォンテリア》
(図22) のヌードには、伝統的な明暗の肉付けによる彫刻的なヴォリュームが見られる。しかしそのような造形はそれ以後見られなくなり、2 、3 年後のいかにも印象派らしい作品においては、逆にヴォリュームは極小に転じる。たとえば《読書するカミーユ・モネ》(図8)においては「タピスリー」のような一体感が強調されていて、人物にはその周囲のソファーほどの立体感も与えられていない。また《ぶらんこ》(図23)では木漏れ日の中に、人間たちは半ば溶解している。

とはいえ印象派時代のルノワールの人体には、同じ頃のモネ、ドガらのそれに比べると、それでも最小限のヴォリュームが与えられているのである。たとえばモネの表現は、目の前の世界をより純粋な映像としてとらえている面があり、そこには空間・奥行きはあっても、対象の重量感は失われているように見える。そのような表現を印象主義の核心的なものと考えるなら、ルノワールの造形は不徹底ですらある。だが彼の持ち味は違う方向に発揮されていたと言ってもよいだろう。人体、特に女性や子どもには、重要ではないもの、とりわけ無機質なものとは違う温もり、膨らみ、重みが与えられているのである。

しかしともあれ、ルノワールは1870年代において絵画を「タピスリー」に見せかけようとしていたのであり、おのずとヴォリュームはかなりの程度抑制されていた。だが1880年代にはいり一転して彼は、ヴォリュームを強調し始める。しかも過剰なくらいにであり、あたかも失われていた大事なものを取り戻そうとして、懸命になっているかのようでもある。この傾向の頂点とも言える《ヴァルジュモンの子どもたちの午後》
(図24) 、《母と子》(図25) 、《大水浴》 (図26) においては、くっきりとした「アングル的」な線と形態によって立体感が表現されている。ただし1880年代のルノワール絵画におけるヴォリュームの把握は、以下に述べるように多彩である。そしていずれにせよ、この時期彼は印象派時代にかなり抑制されていたヴォリュームを、意識して全面的に回復しようとしている。このようなルノワールのヴォリュームへの問題意識は、1880年代を通して、再度セザンヌのそれと交錯し、ここにまた二つの音叉の共鳴現象が生じたと考えられるのである。

1870年代にルノワールによって追究された画面全体を覆う繊細なテクスチュアは、セザンヌを刺激し、「構成的筆触」の完成を促した。そしてセザンヌにとってこの平行する筆触は、画面のテクスチュアを一体化し、同時に対象のヴォリュームを確実に把握するための手段だった。このような造形は今度は1880年代のルノワールに、大きな刺激になったのである。以下、セザンヌにとってのヴォリュームについて若干の分析をしたうえで、ルノワールの多様なヴォリューム表現について触れてみたい。

「こちらで私があなたに言っていたことを繰り返すのをお許しください。自然を円柱、球、円錐によって取扱い、そのすべてを遠近法の中に入れなさい... 」
(10) 。この有名な言葉は、1904年にセザンヌがエミール・ベルナールに宛てた手紙の中に現れる。同じ年のうちにベルナールはこれを雑誌に公表するのだが、それ以後これは特にキュビスムの画家たちにとって、対象を幾何学的な純粋形態に還元する際の合言葉になるのである。

しかしセザンヌはおそらくこの言葉によって、純粋形態のようなものを指してはいなかった。モーリス・ドニは1906年、つまりセザンヌが亡くなる直前にこの巨匠を訪問し、翌年その思い出を記している。彼はその文章の中でこの「円柱、球、円錐」について説明している。「しかるに、彼 [セザンヌ] は、円、三角形、平行四辺形という観念にまでは到らなかった。そのようなものは、彼の目と頭脳が容認しないたぐいの抽象だったのである。彼にとって形態
( フォルム) とはすなわち、ヴォリュームであった」(11) 。これはドニがこの言葉について画家本人にただした内容である可能性もある。

この「円柱、球、円錐」の登場する手紙は、ベルナールが初めてセザンヌに会った直後のものである。ベルナールはしかしすでに1891年に、セザンヌについて小文を書いていた。彼は13年後にセザンヌに初めて会う際に、その小冊子を携えて行ったかもしれない。その文章の中には、次の一節がある。「[ セザンヌの] リンゴは、コンパスで描いたかのように丸く、梨は三角形である... 」
(12) 。セザンヌの「円柱、球、円錐」の言葉は、ベルナールのこの文章に対する反論であった、あるいは少なくとも実際の会見の中でベルナールが発した言葉に対する反論であった、と考えることができるのではないだろうか。やはりドニの言う通り、「円柱、球、円錐」はヴォリュームのある形態のことを言っていたと解釈するのが自然である。

セザンヌの作品の中でベルナールやドニが間違いなく見知っていた一枚に、ゴーガンが所有していた《果物鉢のある静物》
(図27) がある。1880年頃に描かれ、その直後にゴーガンが買ったこの作品は、ゴーガン、ベルナールが綜合主義を生み出す際にも、ナビ派が誕生する際にも、ヴォリュームをいかに圧縮するか、という彼らの課題のための参考になるものだった。たしかに果物鉢やグラスは歪んで立体性を失い、リンゴなどは黒い輪郭線によって取り囲まれている。しかしながらこのような絵においても、セザンヌはすべてのヴォリュームを圧縮するつもりではなかったと考えられる。「構成的筆触」は、中心的なオブジェのヴォリュームを確実にとらえており、一方で周辺的な部分では何を指すとも知れず曖昧に宙を描き、むしろ絵の表面を緻密に織り上げているのである。絵画の2 次元性に対して真実であり、なおかつ私たちの生きる世界の3 次元性 (さらには4 次元性) にも真実であること、セザンヌの絵はその両方を実現しようとしていると言えるが、「構成的筆触」はまさにその際に重要な機能を果たしているのである。

セザンヌの絵画は、リンゴであれ背景であれどの部分も完全に同等に描かれている、としばしば評されてきたが、それは正しくない。これは別の機会に詳しく論じたいが、セザンヌの絵において、中心的オブジェすなわち「図」と、周辺的な部分すなわち「地」とは、つねに対比的・対照的に描かれているのである。前者はふつうヴォリュームを持ち、手に触ることができるかのようにリアルである。たとえばリンゴなどの果物、サント= ヴィクトワール山、水浴する者たちは概ね、中心的オブジェとして扱われる。ただしそれらの中でも主役と脇役の対比はしばしば生じる。一方、周辺的な部分へ行くにつれて、ヴォリュームは解体され、ものの存在感が急激に薄れ、どの距離どの位置関係に置かれているのかも定かでなくなり、抽象化されていくのである。ただしそこにおいても完全に平面的になるというわけではなく、たとえば《果物鉢のある静物》では、「地」の部分、つまり机の面や背景の壁紙では、とらえどころのない不思議な空間の中に浮いているのである。

セザンヌの絵画においては、あらかじめ決められた「空間容器」はなく、絵を見る者はまずはじめに、もっとも確実に描かれた中心的オブジェに取り付き、その後に周辺に向けて、想像のうちで空間を広げていくのである。そしてその「図」と「地」の関係のヴァリエーションは実に多彩である。

そのような構造を持つセザンヌの絵にとって、当初この「構成的筆触」は重要な意味を持っていた。やがて1880年代半ばには、この筆触はもう少し融通の効く「色斑」に置き換わり、あるときには、それすら必要なくなる。しかしいずれにせよ、セザンヌにとってテクスチュアとヴォリュームはともに、絵画の2 次元、現実の3 次元を両立させるための最重要の造形要素だったのである。

さて、ルノワールに話を戻そう。彼が1880年代になってもっとも早く、もっとも明瞭にヴォリュームへの意思を示した作品として、《金髪の水浴の女》
(図28) を挙げるのがよいだろう。これは1882年に画家がアリーヌ・シャリゴを伴ってナポリに旅していたときの作品で、モデルになった彼女によると、この絵はナポリ湾に浮かべた小舟の上で描かれたとのことである。たしかにアリーヌはすでに小太りであったに違いないのだが、それにしてもこのヴォリュームは過剰とも言える。

そしてこの作品ではナポリ湾で実際に描いたことがほとんど実感できないくらい、現実性が捨象されている。アカデミックなヌードは依然として神話的題材を扱い、一方クールベやマネ、ドガらは多くの場合、現実的文脈の中にヌードを置いている。しかしルノワールのヌードは場面設定としてきわめて曖昧であり、そのようなヌードのあり方として思い起こすのは、やはりセザンヌなのである。印象派の中にあって、屋外で水浴する女性たちのモティーフに取り組んでいたのはこの二人だけだった。しかも彼らのヌードからは、物語性・意味性がかなり徹底して削ぎ落とされているのである。

ヌード、あるいは水浴のモティーフにおいても、ふたつの音叉は共鳴していたと見ることができるだろう。1880年代のルノワールの軌跡は最終的に《大水浴》
(図26) において頂点に達する。この作品でたとえば、片足を軽く挙げる水浴の女がセザンヌの作品にも現れるのは、偶然の一致であるのかもしれない (図20) 。しかしこの二人の画家がこのモティーフについても、互いに相手の作品を意識し、刺激しあい、競争しあっていたことは、想像に難くない。そしてここで二人が共通してめざしていたことのひとつが、ヴォリュームの探究だった。セザンヌが水浴を多く扱うようになるのは、「構成的筆触」が試み始められる1870年代半ばからである。他方ルノワールはすでに1870年以前に水浴を積極的に大画面で扱い (図22) 、1870年代にも何度か試みているが (図29)、1880年代以降、もっとも重要なモティーフの一つになっていく。二人の芸術の中で、印象主義から離れていくにつれ、そしてヴォリュームへの意識が増すにつれ、水浴を描いた作品が多くなっていったのである。

もちろん二人の資質の相違は、同じモティーフを扱っていることによって、かえってあらわになる。セザンヌの水浴の女にはほとんど女性らしさがない。たしかに彼は豊かな感情的内面を持つ画家であり、女性に対する根源的な衝動がこうした表現の基底にあるのかもしれない。しかしともあれ、ここに描かれているのが女性であることを示しているのは、髪の毛の長さ、そして誇張された乳房と尻のヴォリュームだけなのであり、それらはほとんど記号と言ってもいい機能を与えられている。それに対して、ルノワールの水浴は、神話的、現実生活的なコンテクストから切り離されている一方で、確かな可触性・質感を持っている。抽象化されたイメージである一方で、女性の魅力の本質をとらえている。それは彼女たちのまなざしや微笑以上に、光をたたえた肌、そして身体のヴォリュームに表現されているのである。この量感豊かなヌードは、それ自体で愛の対象としての純粋なイメージなのである。

ところでこの《金髪の水浴の女》と同様にイタリアで描かれた《たまねぎのある静物》
(図30) 、《南欧の果実》 (図31) という2 枚の静物画にも、豊かなヴォリュームが実現されている。この2 点には新鮮なリアリティがあり、一見すると印象主義的でもある。だがそれにしてもタマネギと水浴の女の乳房の形態感には、不思議な類似が感じられる。ルノワールは、晩年にはしばしばリンゴを描いたのだが、1870年代には花を除いて静物モティーフにそれほど興味を示していない。果物のように手に取り上げることのできる丸いオブジェを描いたものとしては、《たまねぎのある静物》の半年前、つまり1881年夏にヴァルジュモンで描いた《桃のある静物》(図32) が早い。従ってこれらの静物画はたしかに印象派的な面を持つが、むしろヴォリュームへの新たな関心の芽生えを示していると見ることができるだろう。

そしてここにも、セザンヌからの刺激が混ざり込んでいるかもしれないのである。なぜなら彼こそ、印象派の仲間の誰よりも果物、野菜に興味を持っていたのだから。この《桃のある静物》にはルノワールらしい繊細な質感、手触り、そしてテクスチュアが表現されている。しかしこの絵でもっとも独特なのは、背景の処理である。壁紙なのかパネルなのかはよく分からないが、その色彩は桃の赤、そして桃のすき間を埋める葉の緑に呼応している。そして妙に立体感を帯びたその装飾は、手前の果物のヴォリュームを活性化させているようである。このような静物画における壁紙の工夫は、同時代のセザンヌがしきりに試みていたものである
(図27) 。ルノワールがこれを彼から得たかどうかは何とも言えないが、ここにも問題意識の共通性があるのは確かである。

南イタリアで描かれた《たまねぎのある静物》、《南欧の果実》、《母と子》
(図33) は、ルノワールがこの旅行で感動したラファエルロやポンペイの壁画よりもはるかにセザンヌ的だと言ってよいだろう。2 枚の静物画で目につくのは、かなり整然と平行する筆触、あるいは交差する筆触である。それらは背景の虚空をとらえると同時に、モティーフのヴォリュームをとらえている。だがそれ以上にセザンヌを想起させるのは、《母と子》である。ここではテクスチュアもだが、明暗ではなく色彩によって立体感を出す手法もセザンヌを想起させる。もちろんナポリでルノワールがセザンヌの絵を見たわけはない。しかし彼はその2 カ月程のちの1882年の1 月にマルセイユの近く、レスタックでセザンヌとイーゼルを並べて制作する以前から、かなりの程度、セザンヌ的だったのである。

そしてそのレスタックでの制作において、もはやルノワールは、セザンヌからの影響を隠さない。このとき並んで仕事をしたのは2 週間ほどでしかなかったが、以後1880年代を通して、少なくとも風景画においてルノワールはセザンヌから得たものを歴然と見せている。というよりセザンヌと行動を共にする機会を得るたびに風景画を描き、彼から何かを学びとろうとしていたのである。こうして《レスタックの岩山》
(図34) で見せるまだ繊細な平行筆触は、80年代半ばの《ラ・ロシュ=ギュイヨン》 (図35) 、80年代末の《サント= ヴィクトワール山》(図6) において、いっそう顕著に、かつ意志的になっていくのである。これらの作品では、ルノワールらしい優しく豊かで幸福感に満ちた風景ではなく、人ひとりいないうら寂しい景色が取り上げられており、その中で岩、樹、山、家といったオブジェががっしりとつかみ取られているのである。


(図36)ルノワール《アリーヌ・シャリゴの肖像》1885年、フィラデルフィア美術館【出品作】

1885年の《アリーヌ・シャリゴの肖像》
(図36) は、ルノワールが「セザンヌ風」に描きしかももっとも成功した例のひとつとして挙げることができる。かなり大振りの筆触は、顔と帽子の部分を除いて画面のどこにおいてもほぼ均質に扱われている。白い服の部分では筆触は、黄色から青へと色調を微妙に変えながらヴォリュームを確実に把握している。このニュアンスは、セザンヌの静物画における白いナフキンを思い出させる。背景では筆触は、とりたてて何かを描出するのではなく漠然と平行に描かれており、人体の部分と同じ色調であることともあいまって、画面にしっかりとしたテクスチュアをもたらしている。もちろんここでも、二人の画家の違いは明らかである。セザンヌが自分の妻を描くときに単なるオブジェとして描いたのとは違い、ルノワールは愛情をこめてアリーヌを描いている。

ルノワールはしかし、1870年代の造形をすべて捨て去ったわけではない。ヴォリュームを増すという方向はかなり一貫しているものの、いくつかの場合、印象派時代の表現を発展させているのである。《花を摘む女》
(図14) 、《じょうろを持つ子ども》 (図15) のような1870年代の「ミル・フルールのタピスリー」のような構図はその後も進化していった。たとえば1885年の《玩具のムチを持つ子ども》 (図37) は、印象派時代のような木漏れ日の表現が見られ、人物と背景の両方に幾分ヴォリュームが増していることに気づかないと、1870年代の作品と区別がつかない。しかし《髪を編む少女》 (図38)などでは、人体の豊かなヴォリュームにあわせて、背景は不安定な空間性を帯びているのである。このような場合、セザンヌのとらえ方とまた接近してくる。たとえば1889年頃に彼が描いた《ヴィクトール・ショケ像》 (図39)はかなり近い造形を示しており、ここでも相互に刺激しあっていたと思われるのである。

1888年頃の《葡萄摘みの昼食》
(図40)では逆に、70年代の記憶はほとんどないと言ってもよい。1870年代は都会的だったが、ここでは意図して田舎らしさを出している。新しい要素、ロココ芸術への憧憬とセザンヌからの影響がこの作品では顕在化している。パステル・カラーによる色調はロココ的であり、均質な筆触によるテクスチュアと明確なヴォリュームへの意識とが融合している点はセザンヌ的である。

しかしこれよりもさらに明瞭に、1870年代の空間・立体のとらえ方へのアンチテーゼを試みているのが、《ヴァルジュモンの子どもたちの午後》
(図24)である。この絵には印象派時代への自己批判だけでなく、セザンヌ的な造形を含め自分が最近までやっていたことに対する批判まで含まれているように見える。右で縫い物をしている娘に見られるように、くっきりとした輪郭で浮き上がったヴォリュームは、ここでも際立っている。その立体感は、陰影ではなくハイライトを入れることによって表現されている。画家は画面右の赤と左の青を対比させようとして、ここでは印象派的な筆触分割も、セザンヌ的な造形も、まったく取り入れていないのである。その上、ここではこのヴォリュームを2 次元平面に据えつけようとする意識が希薄なようで、テクスチュアにもほとんど注意が払われていない。

この絵においては、対象、特に人物が充満・結合したりはしない。1870年代から80年代半ばにかけての、たとえば《ぶらんこ》
(図23)、《読書する二人》(図12) 、《ブージヴァルのダンス》(図41) など、数人の人物を描いた作品では、ルノワールは癖のように、ある人物と奥にいる人物の顔と顔が画面上で接するよう工夫した。しかしこの《ヴァルジュモン》では、人物は凝集せずそれぞれ孤立しているようである。ここではまた、人物は低い位置から水平にとらえられている。1870年代においては、たとえば《読書するカミーユ・モネ》(図8)、《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》(図10) に見られるように、すわる者、特に子どもは、しばしば立つ者の視点からとらえられている。それによって画家がその場に立ち会っている感覚、そして即興的な気分が表されるのである。しかしこの《ヴァルジュモン》では、画家はこの空間に参加しておらず、少女たちは永遠にこの姿勢でいるかのように、静的である。

《ヴァルジュモンの子どもたちの午後》は、実験精神・批判精神の旺盛な作品であり、1880年代におけるルノワールの表現の振幅をよく示している。彼はこうして造形、とりわけヴォリュームについてのレパートリーを増やしていったと言えよう。しかし1890年前後、ルノワールは後期の様式に到達し、それ以後、彼の様式の変化はきわめて穏やかなものになるのである。

本展覧会を締めくくる《ピアノを弾く少女》
(図1) はまさにその後期の様式の入り口に位置する作品であり、1870年代、80年代のルノワールによるさまざまな試行を集大成するものである。この絵のテクスチュアは、1870年代の「タピスリー」的表現や、セザンヌの「構成的筆触」を取り入れていた頃のものに比べると、あらわではなく控えめだが、それでも絹のような質感が、少女たちの衣服とカーテンから発して画面全体を覆っている。少女たちのヴォリュームは、自然に、かつしっかりと把握されている。彼女たちは低い位置から水平にとらえられているので、臨場感よりもある種の永遠性・普遍性が生じている。左奥の壁、カーテン、そしてピアノを弾く娘は位置としてかなり隔たっているのだが、同じ金色が配されていることによって画面上に結合している。同様に奥の壁の赤と一番手前、右下のソファーの赤とが、呼応し合っている。このように本来、平面的であることの多い背景の部分にある種の空間性を与え、言わば「地」を揺り動かすことによって、「図」あるいはヴォリュームを活性化させ、同時に2 次元の絵画面に据えつけるような手法は、セザンヌが得意としていた。そしてまたたとえばこのような分厚いカーテンを使って背景に空間的な流れを与えるやり方も、1880年代後半にセザンヌがしきりに使っていたものである。しかしそれでも、この絵に彼からの影響を読み取るのは、行き過ぎであるかもしれない。ここにあるのは紛れもないルノワールの穏やかな、そして論理的な空間であり、セザンヌの絵の中におけるように背景が歪んだり解体したりはしないのである。むしろこの作品には、二人が共に追究していた課題への、ルノワールなりの解答が出されていると考えることができるだろう。これは二人の間の大きな共鳴関係の、ルノワールの側における成果なのである。

ルノワールの現在

ルノワールとセザンヌが、とりわけテクスチュアとヴォリュームという造形に関して互いに刺激しあい、おのおのの世界をつくっていった過程をたどってみた。それではその後の近代美術の中で、テクスチュア、ヴォリュームとは、それぞれ何だったのだろうか。

「タピスリー」のようなテクスチュアを、1870年代半ばにピサロも採用したことについては前に触れたが、1880年代初めに彼の筆触はさらに整然としたものになる。そしてその影響下に、1880年代半ばにスーラが点描の技法を開拓していった。彼の様式には科学的な色彩という面と、「オール・オーヴァー」な筆触という面がある。20世紀には、たとえばポロック、ライマンのように、「オール・オーヴァー」に画面を覆う絵画が数多く生まれ、それによって絵画の本質の重要な一面が呈示されるだが、そのようなモダニズムの流れから逆上って、スーラ、セザンヌ、ピサロ、そしてルノワールを眺めてみることも可能である。

しかし他方で、ルノワールの「タピスリー」的表現は、その本来の意味合いを深めつつ、ボナール、ヴュイヤール、ドニらナビ派へといたる流れをも生み出しているのである。彼らはときにルノワールよりも歴然と、絵画に「タピスリー」のテクスチュアを与えようとした
(図42) 。彼らは19世紀ブルジョワジーの親密 ( アンティーム) な室内を絵に再現したのだが、同時にそれらの絵がその室内を装飾するためのものとなっている。この流れの行き着くところにマティスがいる。たしかに彼の絵の仕上げは、筆触を織り上げた「タピスリー」とは違う、もっとフラットなものである。だが織物をふんだんに引用しながら画面全体に装飾性をもたらしている点、私的な室内空間を基点にして発想している点からして、彼は紛れもなくルノワールの後継者だった。しかしながらこのような「個人主義」は、20世紀後半における大衆化社会の急速な進展の中で、次第に表現されにくくなっていったようである。それは美術自体が、個人的な空間ではなく、美術館など公的な空間を前提にすることが多くなったこととも関係しているに違いない。

さて、絵画におけるヴォリュームの扱いにおいても、夾雑物を急速に捨象していくモダニズムの流れと、固有の意味性を大事にするゆったりとした流れとがあった。ルノワールとセザンヌの二人はすでに、水浴のモティーフから神話性も、現実生活のリアリティも取り去っていた。とりわけ女性らしさまでも削ぎ落としたセザンヌの表現は、アフリカの原始彫刻などとともにキュビスムへ強い影響を与えた。それらの形態には、それぞれ個人や民族の意味がこもっていたかもしれないが、モダニズムの流れの中ではそれらはたちまち失われていった。そして人体であることも捨象されて、ヴォリュームは純粋かつ抽象的な形態に到るのである。

しかしルノワールが描いた女性のヴォリュームには、言わば愛情がこめられており、それゆえ急速に意味内容が捨象されることはなかった。本人の言葉を読む限りルノワールは、19世紀ブルジョワジー独特の男性中心的なものの見方を持っていた。愛するべきもの、女性や子どもに重みとヴォリュームを与えるその感覚の底には、「所有」の意識があると見ることもできるだろう。もっともそれはけっしてあからさまではなく、彼はそれを純粋・普遍化して表現した。ルノワールのヌードには「物」としての確かな存在感があり、しかもこれは愛、生命力、豊穣、幸福の表現となっているのである。そのようなヌードの系譜を引くのが、やはりボナール、マティスであった。また彫刻においてはマイヨールからムアへと到る流れがある。ここには楽観的なヒューマニズムがあり、第2 次世界大戦の前後にたとえばフォートリエ、ジャコメッティが、徹底してヴォリュームをけずり落とした人体の表現を生んだのは、まさにそれに対する批判だったと言ってもよい。しかし逆に見ると、彼らのそうした表現が成り立つためには、原イメージとして、ヴォリューム豊かな人体のイメージが必要だったとも考えられる。こんにちの作家がルノワールのようなヴォリュームを表現したら、いくぶん楽天的過ぎると思われるに違いないが、その視点を19世紀のルノワール芸術を見る際に持ち込む必要はないだろう。

私たち日本人にとっては、西洋の長いヌードの歴史の中でもっとも純粋化されたイメージとして、他でもない、後期のルノワールの水浴する女があったことも忘れてはならない。20世紀初頭に、梅原龍三郎らを介して日本にもたらされたそのヌードがこれほど日本に根付いたのは、やはりそこにイメージとしての力があったからに違いない。

現代においてルノワールの魅力を、どうとらえればよいのだろうか。私たちはもちろん、素直に彼の生み出したものを純粋に楽しんで構わない。しかし、愛想の良すぎる笑顔にかえっていらだちを抱く者たちも、少なくないのかもしれない。彼の芸術は、あまりに親しみやすいので、それだけに自分との距離を保ちにくいのである。本当は、異国の、違う歴史・風土に根ざした、違う時代の、独特の内面と世界観を持ったある人間の生み出したものなのである。現代の私たちはむしろ、彼との間合いをもっと大事にしてもよいだろう。それによってこそ、ルノワールの真価が見えてくるのではないだろうか。

ルノワールの造形~セザンヌとの関係において 完

宮崎克己「ルノワールの造形~セザンヌとの関係において」『ルノワール 異端児から巨匠への道 1870-1892』(展覧会カタログ)ブリヂストン美術館など、2001年
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
なお、ここでは原文を若干修正し、また挿図を入れ換えています。
無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。

 



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(図22)ルノワール《水浴する女とグリフォンテリア》1870年、サンパウロ美術館【出品作】


(図23)ルノワール《ぶらんこ》1876年、オルセー美術館【出品作】


(図24)ルノワール《ヴァルジュモンの子どもたちの午後》1884年、ベルリン国立美術館【出品作】


(図25)ルノワール《母と子(アリーヌ・シャリゴと息子ピエール)》1886年、箱根芦ノ湖美術館(ユニマット)【出品作】


(図26)ルノワール《大水浴》1887年、フィラデルフィア美術館

(10)セザンヌよりエミール・ベルナール宛の手紙、エクス= アン= プロヴァンスにて、1904年4 月15日。Cézanne: Correspondance, op.cit., p.300.なおこのセザンヌの手紙と、ドニ、ベルナールの文章との関連は、すでに次の論文の中で指摘した。宮崎克己「セザンヌの言説--「表面」/ 「深み」そして「古典」/ 「自然」の対立について--」『駒沢大学 文化』10号、1987年3 月、109-142 頁。

(11)Maurice Denis, "Paul Cézanne," L'Occident, Sept. 1907, repr. in Théories, 1913, p.257-258.

(12)Émile Bernard, "Paul Cézanne," Les Hommes d'Aujourd'hui, 8, no.387, 1891, tr. in English in Impressionism and Post-Impressionism: 1874-1904, Sources and Documents, ed. by Linda Nochlin, New Jersey, 1966, p.100.


(図27)セザンヌ《果物鉢のある静物》1880年、個人蔵


(図28)ルノワール《金髪の水浴の女》1881年、ウィリアムズタウン、クラーク・アート・インスティテュート


(図29)ルノワール《陽光の中の裸婦》1875年、オルセー美術館









(図30)ルノワール《たまねぎのある静物》1881年、ウィリアムズタウン、クラーク・アート・インスティテュート


(図31)ルノワール《南欧の果実》1881年、シカゴ・アート・インスティチュート


(図32)ルノワール《桃のある静物》1881年、メトロポリタン美術館【出品作】


(図33)ルノワール《母と子》1881年、バーンズ財団


(図34)ルノワール《レスタックの岩山》1882年、個人蔵【出品作】


(図35)ルノワール《ラ・ロシュ=ギュイヨン》1885年、アバーディーン美術館

















(図37)ルノワール《玩具のムチを持つ子ども》1885年、エルミタージュ美術館


(図38)ルノワール《髪を編む少女》1884年、ラングマット財団【出品作】


(図39)セザンヌ《ヴィクトール・ショケ像》1889年頃、個人蔵


(図40)ルノワール《葡萄摘みの昼食》1888年頃、アーマンド・ハマー・コレクション【出品作】


(図41)ルノワール《ブージヴァルのダンス》1882-3年、ボストン美術館


(図1[再掲]) ルノワール《ピアノを弾く少女たち》1892年、オルセー美術館【出品作】









(図42)ヴュイヤール《仕事部屋》1893年、スミス・カレッジ美術館