浮世絵からマンガへ
~ジャポニスムとしてのグラフィック・アーツとその里帰り
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口頭発表原稿

ジャポニスム学会・京都精華大学国際マンガ研究センター主催
シンポジウム「ジャポニスムとマンガ:”二つの日本美”」
2010年12月5日
京都国際マンガミュージアム
   
   
(1) 浮世絵からマンガへ~見取り図

マンガと浮世絵、この二つをめぐっては近年、さまざまな比較が論じられてきました。おそらくこのシンポジウムでも議論の中心になると思いますが、ジャポニスムの一つの核でもあった浮世絵に対して、マンガを「ネオ・ジャポニスム」と呼びうるか、というようなことがあります。

それはさておき、私の発表ではそうした比較論ではなく、美術史的に見て、浮世絵からマンガへと、段階的・系統的に発展したと言える要素があるのかどうか、について検討してみます。

たしかに浮世絵とマンガだけを見ている限り、この両者は別系統に見えるにちがいありません。しかしここで、第一に、この両者を「グラフィック・アーツ」という大きな領域のなかで考えたとき、どうなのか、そして第二に、日本だけでなく、西洋との関係のなかで考えたとき、どうなのか、そのように問題を立ててみたいと思います。

ところで、私が今日述べます「浮世絵」には、「団扇」「扇子」「版本」「引札」など、日本の木版による多種の画像が含まれていることをお断りしておきます。

ここで最初に、私の考える浮世絵からマンガへいたる道筋について、全体の見取り図をお示ししたいと思います
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(1)見取り図

1888年頃から95年頃にかけて西洋では、版画・イラスト・装幀・ポスター・マンガ・絵はがき・カレンダー・文字デザインなどを包含するものとしてのグラフィック・アーツが確立しました。それに関する既存のメディアは一新し、あらたなメディアが登場し、多くの作家が横断的にさまざまなものに取り組みます。そして彼らにとって共通して、浮世絵が大きな刺激となっていました。グラフィック・アーツはあらゆるジャンルの中で、ジャポニスムがもっとも濃厚に現れたジャンルだったと言って言い過ぎではありません。

そしていったん確立したグラフィック・アーツが、1905年頃から10年頃にかけて、日本に強い影響を及ぼし、そこでもこれはジャンルとして確立します。当然、現代日本のマンガも、そうしたグラフィック・アーツの成果を踏まえているわけです②。

もちろん話は単純ではなく、西洋においてグラフィック・アーツの一角としてのマンガが、1890年代なかばに、各国で同時発生的に出現し、それがまた日本にやって来たという道筋もあったと思います①。

一方、このようにいったん西洋に影響したものが日本に戻ってくるという道筋だけでなく、日本国内だけの発展というのも、なかったわけではないと思います。浮世絵的な表現が、映画・芝居の劇場の看板・ポスター、あるいは紙芝居を介してマンガに流入した、という道筋も考えられるだろうと思います③。

今日の私の話は、この三つの道筋のうち主として②についてです。私は①と③の道筋については、ごく断片的な知識しか持たないのですが、その断片をお見せしますと、たとえば1912年のあるアメリカン・コミックですでに土ぼこり、冷や汗、スピード線などが記号として用いられており
(2)、そうしたものが1946年、手塚治虫の初期作品にも流れ込んできていると言えます(※3)


(2)ガス・メーガー「シャーロッコ・ザ・マンク」1912年

あるいはまた、これは比較的初期の劇画
(※4)の例ですが、ページをめくると、このように色刷りになり、その顔の表現などをみると、とうてい西洋の影響が入っているように見えず、チャンバラ映画の看板やポスター、紙芝居のようなものの造形感覚が流れ込んでいることがうかがわれます。


(2) ジャポニスムからグラフィック・アーツの確立へ

まずは、浮世絵からの影響で、グラフィック・アーツが確立したことについて説明します。

ここで、1890年代フランスの、ポスター黄金時代の劈頭を飾るボナールの作品(5)を見てみたいと思います。ボナールは当時大変な日本かぶれだったことが知られています。このシャンパンのポスターで目につくのは、「線」の強調です。

そもそもグラフィック・アーツとは、画像と文字があり、それが版画・印刷などによって大量に複製されるメディア、と定義することができると思うのですが、画像・文字・印刷といったことの必然的な帰結として「線」の強調が生じます。

このポスターでは、北斎などの日本独特の「波」の表現が意識的に転用されています。それは溢れ出るシャンパンだけでなく、くねくねとした頭などの線にも見て取れます。そして上部のフランス・シャンパーニュと書かれた文字は、画像と連動しているように見えます。ここではとりわけ、太くなったり細くなったりする肥痩のある線がめだっていますが、こうした線は西洋にはほとんどなかったものです。

日本の線の面白さは、ジャポニスムの早い段階から認識されていました。北斎漫画のモチーフの引用は、1883年ゴンスのこの『ラール・ジャポネ』
(6)にも、1888年ビングの『ル・ジャポン・アルティスティック』にもふんだんに見られます。ビングは、こうした自律的な線の表現は、もっとも巧みに陰影・明暗によって描写したものよりも、形態をうまく伝えうる、と述べています。

これは、まだ日本からの影響のない初期のシェレの作品
(7)ですが、たしかに陰影の表現は、ポスターの伝達力・表現力にとってかならずしも必要でなく、むしろインパクトをそぎかねない要素であることをうかがわせます。

(6)ゴンス『ラール・ジャポネ』1883年、北斎の素描


イギリスではウォルター・クレインがすでに1860年代末に、日本の浮世絵の、陰影を伴わない簡潔な線に気づき、自分でもそれを絵本などに応用し始めています
(8)

フランスでは同じ頃マネが、やはり日本の線の表現力に注目し、特にポスターやデッサンにおいてそれを使った独自の試みをしています
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ジャポニスムの基本文献を書いたベルガーによると、とりわけ1890年のパリ美術学校における大浮世絵展以後、「第2のジャポニスムの波」が起こります。それはとりもなおさずグラフィック・アーツの領域におけるジャポニスムです。

(9)マネ《シャンフルーリ『猫』のためのポスター》1868年

フランスのロートレック
(10)、イギリスのビアズリー(11)、ベガースタッフ兄弟(12)、ドイツのエックマン(13)らが登場し、またイギリスの『ステューディオ』、フランスの『ココリコ』、ドイツの『ユーゲント』(14)『ジンプリツィシムス』などの雑誌は、ビジュアルな試みを徹底していき、ここにグラフィック・アーツは大きく開花します。

このブルドッグの、一見ジャポニスムとは見えない有名なポスター(15)も、陰影の不在、肥痩のある線からして、ジャポニスムのひとつの帰結と考えることができると思います。

(11)ビアズリー《本のポスター》1895年(ロンドン)


こうした単純化・純粋化・抽象化は、近代絵画全体の方向性と平行しているのですが、近代絵画が「色彩」を中心としたジャポニスムだったのに対して、グラフィック・アーツは「線」を中心としたジャポニスムだったと考えられます。

そしてもう一つ、こうした線の極限的な単純化は、つねにある種のユーモアを含んでいることにも注目したいと思います。

(13)エックマン「カプリッチオ」のボーダー装飾(アイリス)『パン』1895年3月号

そしてまさにそのような背景から、マンガが出現したわけです。マンガの発生については、さまざまな議論があると思いますが、私はグラフィック・アーツの真っ只中から、1890年代中頃に、西洋各地で同時多発的に出現したと考えます。

(15)トーマス・テオドール・ハイネ『ジンプリツィシムス』の表紙、1896年

これは1895年の『ステューディオ』のイラスト
(16)、これはアメリカのマンガの元祖、1896年の「イエロー・キッド」(17)、そして、同じ年の『ユーゲント』に掲載されたコマ割りマンガ(18)、これらはいずれもきわめて単純な線から成っており、それまでの、力強くはあるがやや煩雑なドーミエのデッサン(19)などとちがう、きわめてシンプルなものとなっています。グラフィック・アーツのなかで「線」は、最小限のものに切り詰められた、自律的なものとなっていったのであり、そうした「線」がマンガの成立にとって必要条件だったと考えられます。






(17)リチャード・アウトコールト「イエローキッド、半ページのマンガ」『ニューヨーク・ジャーナル』紙、1896年10月25日



(18)H.アルブレヒト《Liebe in Wörishofen》『ユーゲント』1896年

→続く

宮崎克己「浮世絵からマンガへ~ジャポニスムとしてのグラフィック・アーツとその里帰り」(1)『アートの発見』碧空通信 2011/11/18
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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※印を付した作品は、作者の著作権期間が終了していないため、図版掲載を差し控えます。

(※3)手塚治虫「ロストワールド」1946年

(※4)植木金矢「神風旗之助」『日の丸』1958年7月












(5)ボナール《フランス=シャンパーニュ》1891年






(7)シェレ《ミニヨン》1866年


(8)クレイン『数の絵本』19世紀後半


(10)トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュ(ポスター)》1891年


(12)ベガースタッフ兄弟《「ドン・キホーテ」のポスター》1896年(ロンドン)


(14)『ユーゲント』誌表紙、1896年8月29日号


(16)“Hilda”《忙しい日》デザイン・コンペ・第2席、『ステューディオ』1895年、第5号


(19)ドーミエ《時事問題 シャンゼリゼにて ラタポワール「12月10日協会の慈善的議決により...こん棒2スー!...2スー!」》『シャリヴァリ』紙、1851年