空間のジャポニスム
 
アートの発見

 
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第1章

「空間」の再定義 (1)
   
 
遠近法からの解放

19世紀後半、モダンアートの先駆となる画家たち、マネ、ドガ、モネ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホらの登場とともに、西洋絵画における空間が急速に変容していったことは、よく知られるところである。「絵画における空間」と言ったとき、誰しもルネッサンスに確立した遠近法(パースペクテイヴ)のことを想起するにちがいない。これは透視図法、線遠近法、科学的遠近法などとも呼ばれるものだが、それがこの時期に衰退した。つまり、もはや意欲のある画家たちの大多数に、積極的に用いられることがなくなったのである。空間が浅くなり、圧縮され、解体され、絵画が「平面化」した、と多くの者が考えた。

一方、この19世紀後半というまさに同じ時期に、ジャポニスム
(日本趣味)が急速な拡がりを見せていた。そして日本の絵画は、大多数の西洋人の目に、装飾的・色彩的・平面的であるように映っていた。そのようなわけで、「平面化」していく西洋絵画に、「平面的」な日本絵画が何らかの影響を与えたことが、しばしば語られてきたのである。たとえば、浮世絵の平坦な色彩がゴーギャンやゴッホに影響した、と繰り返し述べられてきた。これが、おなじみのジャポニスムの言説である。

さて、本書ではこのジャポニスムというものを、これまでとまったく違う観点でとらえ直してみたい。すなわち、日本美術が西洋美術に影響したのは「平面性」においてではなく、「空間性」においてだった、と考えるのである。要するに、従来の見方では、近代になって絵画空間が否定ないしは圧縮され、「平面化」されたと見るのに対して、ここでは、それが異なる種類の空間システムへ移行したととらえ、その際に日本美術が影響したと考えるのである。

遠近法は、フィレンツェの建築家ブルネレスキによって15世紀初めに理論化された。現代の中学生に、たとえば自分の立つ位置から地平線まで2本の平行するレールが延びている光景を絵にするよう言えば、おそらくは、その2本が奥へ行くにつれて間隔を狭め、地平線上で一点に収斂するような図を描くことだろう。数学的に理論化された遠近法は、たしかにこれよりもはるかに厳密なのだが、それでも、そのように奥行へ向かう複数の直線が地平線上で一点、すなわち消失点に収斂するようなイメージをもてば、基本的な理解として十分にちがいない。レオナルド・ダ・ヴィンチによる《マギの礼拝のための習作》
(a)は、未完成であるため、まさにそのようなイメージを私たちに分かりやすく示してくれている。

遠近法によって絵画が描かれるためには、固定された目としての「視点」と、視野を限定する「枠」が必要である。これについては、デューラーの『測定法教則』の挿図の一枚
(b)が明解にその関係を教えてくれる。つまり、枠にはめられた透明なガラスの手前に、一つの固定した視点を設定し、そこからガラスの向こうの光景を眺め、ガラスの上にその形を描きとめるのである。対象の個々の点と視点とを結びつけると「視覚のピラミッド(角錐)」ができるのだが、このピラミッドが枠取られたガラス板によって切断されることになる。

以上が、もっとも狭い意味での遠近法の概略である。ちなみにレオナルドは、この遠近法に、明部と陰影を描き分ける明暗法、距離による色彩の効果の差異を描く空気遠近法を加え、より広い意味での遠近法に総合した。

さて、この遠近法は長い年月をかけて、きわめて数学的・体系的なものとして完成されていき、その強固な理論性もあって根強い伝統となった。ただし、ルネッサンスからマニエリスム、バロックへと展開する中で、遠近法はけっして拘束となったのではなく、逆に、これこそがそれぞれの時代の絵画的想像力のための跳躍台となっていたという面がある。

そして遠近法は、その技法としての明瞭さゆえに強い伝播力をもち、日本にまで伝わった。こんにちそれがはっきりと確認できる早い例は、ここに掲げる奥村政信の《両国橋夕涼見》
(c)のような江戸中期、18世紀中頃のものとされている。ただしここでは遠近法が、明らかにそれとは異質の空間と合体しているのが分かる。つまり、建物の内部を整然ととらえる遠近法は、その向こうの風景にまで一貫しておらず、そこには日本的な空間が広がるのである。ともあれ、遠近法を利用して描かれたこのような版画は、当時「浮絵」と呼ばれてもてはやされた。ただしこうした浮絵に見られる遠近法の技法は、オランダなど西洋から直接導入されたのではなく、すでに西洋の遠近法を受容していた中国絵画を媒介として日本にもたらされたと考えられている。

しかし、18世紀の末になると、あの『蘭学事始』に語られるように、直接オランダの本を読む努力が開始され、それとともに秋田蘭画が興り、また司馬江漢のように長崎まで出かけて西洋絵画に触れようとする画家も現れる。それ以後、西洋の遠近法は、とりわけ浮世絵の中に急速に浸透し、それ以前の日本的な空間と融合していく。もっとも、「日本的な空間」といってもそれは、中国などからいくたびにもわたる波となってやって来たものが、日本において独特の熟成をしたものであり、純粋な「日本的空間」を抽出することは難しい。

それはともかく、19世紀の中頃に日本が開国し、この国の情報や文化が西洋において好奇の目をもって迎えられることになるのだが、その時点までに日本美術の中では、日本的・中国的・西洋的なもののたび重なる複合の結果、中国にも西洋にもないきわめてユニークな、しかも効果的ないくつかの空間の造形が成立していたのである。

そして同じ19世紀中頃に西洋では、強固な理論性をもつ遠近法は、それゆえ画家たちにとってかえって大いなる拘束となり始めていた。市民社会と個人主義の急速な進展とともにあらゆるものの見方が変わり、何を描くにせよ従わなくてはならない規則としての遠近法は、もはや画家たちにとって軛
(くびき)でしかなかった。日本美術における「空間」は、技法として、また発想として、彼らが遠近法から自らを解放するための、いくつかの重要な手段を与えたのである。

→続く


宮崎克己「『空間』の再定義」『空間のジャポニスム』第1章、『アートの発見』碧空通信 2011/08/31
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(a)レオナルド・ダ・ヴィンチ《マギの礼拝のための習作》1481年頃、ウフィッツィ美術館




(b)デューラー『測定法教則』より「横たわる女性を素描する人」1525年、ドレスデン国立美術館













(c)奥村政信《両国橋夕涼見》1742-44年