空間のジャポニスム |
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第4章 女性たちの空間 (4) |
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内面という空間 ジャポニスムの少なくとも半分は、このように女性の願望によって引き起こされていたのである。このジャポニスムの「女性性」は、その直前に起こっていたオリエンタリズムの「男性性」と、ある程度まで対照的であったと言えるだろう。 オリエンタリズムはおおむね、ナポレオンのエジプト遠征のあと、19世紀の初頭に始まったとされている。その際の「オリエント」とは主として、北アフリカから中近東にかけてのアラブ圏を指す。そこは、ヨーロッパの列強が19世紀において、急速に植民地化を進めていった地域である。 サイードが『オリエンタリズム』の中で主張したように、この時代の西洋の東洋に対する眼差しのほとんど、表象のほとんどが、支配と優越の意識に裏打ちされていた。しかもそれは多くの場合、男性の女性に対する支配と優越の意識とも重なり、文学・絵画などに表現されたのである(t,u)。オリエントにおいてあたかも女性はつねに囚われており、無抵抗であり、無為であるかのようであり、彼女たちは物のように対象化されるのである。こうした絵は、典型的に西洋の男性的なヴィジョンによる、西洋の男性を鑑賞者として想定したものだったと言える。 そのようなオリエンタリズムは、当然インド、中国、そして日本にまで拡張された。ジラールの《日本の化粧》(v)は、日本を訪れたことのない画家による空想の産物だが、同じ時期の典型的なオリエンタリズムの表現であるジェロームの《ゆあみ》(u)などと、実によく似ている。ロティの『お菊さん』にしても、日本文化に対する作者の敏感な観察がうかがえるにしても、内容としては、圧倒的な力をもつ西洋男性が、無力な日本女性をいわば意のままにする物語であり、典型的なオリエンタリズムのひとつと見なすことができる。 このようにジャポニスムの中にも、オリエンタリズム的な側面があり、そこにおいては男性原理が表出していたのだが、それでもジャポニスムとオリエンタリズムとは、かなり重心の違うものだったと考えられる。ヨーロッパにとって北アフリカ・中近東は、なまなましい政治的・軍事的な衝突の繰り広げられた舞台であり、最終的に西洋の植民地となったのに対して、極東の日本は開国から半世紀のあいだ、さいわいに西洋との直接の大きな衝突が避けられ、不思議な文化をもつ国、神秘の国にとどまったのである。 さて、19世紀のオリエンタリズムとジャポニスムの絵画の中には、西洋の優位、男性の優位とはおよそ違う画家の視線を読み取ることのできるものがある。たとえばアングルの《トルコ風呂》(t)にしても、たしかにほとんどの女たちが単なる集積された肉体であるかのように描かれているのだが、楽器を弾く手前の女ひとりには、特別なスポットライトが当てられているかのようであり、私たちは、彼女の内面へと誘われるのである。このような異国の女性の「内面」への想像力を深く追究したのはドラクロワであり、たとえば《横たわるオダリスク》(w)や有名な《アルジェの女たち》(x)がある。 このロマン主義的なモチーフは、オリエンタリズムからジャポニスムにも移された。たとえば、ホイスラーの《白のシンフォニーNo.2》(y)、クノップフの《シューマンを聴きながら》(z)が想起される。ホイスラーのこの作品は、早い時期のジャポニスムの作例のひとつであり、女性が日本の団扇をもっているだけでなく、右下から唐突に顔を出す花の咲く枝の表現なども、あきらかに日本絵画の影響を示している。ジャポニスムの初期の時代はレアリスムの時代でもあり、ドラクロワほどの茫漠たる夢想が描かれるわけではないのだが、ホイスラーの描く女性はどれも、外ではなく内を向いている。 (y) ホイスラー《白のシンフォニーNo.2》1864年、テイト・ギャラリー (z)クノップフ《シューマンを聴きながら》1883年、ベルギー王立美術館館 ベルギーのクノップフは、のちに象徴主義を開拓することになるのだが、この作品は彼の初期のものであり、右下からやはり唐突に顔を出す床几、右の卓上の朱塗りの杯は明らかに日本製だし、左上に手だけ見えるピアニストの表現などもまた、日本絵画からの影響を示している。 さて、これより200年前であれば、このクノップフの絵の内面に没入する女性のポーズは、聖ヒエロニムスなどのものとして見られたものであり、「瞑想」を示したはずである。このポーズの人物は、また「死を忘れるな(メメント・モリ)」というキリスト教的な言葉ともしばしば結びつけられた。しかしここで彼女は、神を想っているのではなく、ひたすらシューマンのピアノ曲に聴き入っているのである。ドラクロワやホイスラーの女性たちも、けっして神に祈りを捧げたりはしない。 つまりかつては、あらゆる人間の心の内が神の視線に貫かれており、内的世界が神の世界と連絡していたのだが、いまや、「内面」という完全に閉じた空間、自律的世界が成立したということなのである。これらの絵に描かれた異教徒のオブジェは、キリスト教の神との間の通路が存在しないことを示唆している。その上に社会から隔絶されてしまった女性たちは、自らの閉ざされた内面へ向かうほかない。これらの閉ざされた室内そのものが、「内面」のフタファーになっているのである。 19世紀の一部の芸術家たちは、本人たちがまさに非社会化した結果、自らのうちに内面という自律的空間を発見し、それを確立したのであり、その表現として好んで、異国のものに取り囲まれた「もの想う女性」を題材として選んだのである。芸術家たちは、そのような女性の姿を内面への扉と見なしたのだし、一方、女性たちもまた自ら芸術家になる道を見出したのである。 日本の美術工芸品が置かれ、近代絵画が掛けられ、ピアノ曲が流れるような部屋は、内面に沈潜し、そのようなものとしての自己を確立するための舞台装置だった、とも言えるだろう(「内面」についてはさらに〈西洋近代の空間〉の章で考える)。 第4章完→第5章へ続く(近々掲載) 宮崎克己「女性たちの空間」『空間のジャポニスム』第4章、 碧空通信 2012/01/27 Copyright 2012 MIYAZAKI Katsumi 無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。 |
前頁 空間のジャポニスム・扉 アートの発見・トップ (t) アングル《トルコ風呂》1859-63年頃、ルーヴル美術館 (u) ジェローム《ゆあみ》1880-85年頃、サンフランシスコ美術館 (v) ジラール《日本の化粧》1873年、プエルトリコ、ポンセ美術館 (w) ドラクロワ《横たわるオダリスク》1827年、リヨン美術館 (x) ドラクロワ《アルジェの女たち》1834年、ルーヴル美術館 |