空間のジャポニスム
 
アートの発見

 
宮崎克己のサイト

   
第4章

女性たちの空間 (3)
   
 
ジャポニスムの女性性

扇と団扇は西洋においてもっぱら、婦人の持ち物だった。しかしそれだけでなく、ほとんどのジャポネズリー(日本の美術工芸品)が、磁場にたとえるなら、男性の極よりも女性の極に引きつけられていく傾向がある。

もちろん、そう言うとすぐさま、マネによる《ゾラの肖像》(p)のようなものを想起しつつ、たとえばそこに描かれている屏風などは、男性の持ち物とされているではないか、そもそもゾラに限らず、この時代のジャポニザンとして有名な者たちのほぼすべてが男だったではないか、という反論が沸き起こるにちがいない。

屏風はこの時期のフランスで、団扇、扇と並んで絵画的なものとして多く日本から輸入されていたものだった。ちなみに屏風はわが国の発明品ではなかったが、日本において和紙を使ったものに改良され、軽量で折り畳み・持ち運びの可能なものとして進化したのである。恒久的な間仕切りの多い中国などの建物では、そのような可動性はあまり必要とされていなかったと考えられる。

東洋の屏風は、扇と同じく16世紀中には西洋に伝わり、やはり当地でもつくられるようになった。日本製のものは当時の交易において大いに珍重されたのだが、消耗しやすいため、早い時期に西洋に渡ったものの残存例はきわめて少なく、現存するもののほとんどは中国製の、木製で黒漆に図柄を施したものである。

西洋において屏風は、18世紀前半のロココの時代に大きな流行を見たが、それはロココの終焉とともに18世紀末には完全に下火になった。その屏風がふたたび好まれるようになるのは、1870年代頃からであり、ジャポニスムはその再流行を強く後押しした。

19世紀後半の西洋で屏風が使われたのは、公的な場であることはほとんどなく、私的な場においてである。市民たちの室内調度についての当時のある案内書には、誰もが大きな部屋の方が快適だと思うものだが、ときには会話などプライヴァシーのため、それを屏風によって臨時に区切るのがよい、などと書かれている(5)。一般的にブルジョワの邸宅には、多数の客をもてなすことのできる大きなサロンがあったのだが、屏風がつくり出したのは、個人の家の中でもさらに私的な空間だった。これは前節で述べた、屏風のもつ基本的な機能のひとつ、すなわち心理的な「仕切り」として使われているのである第3章、j,k

日本では屏風は、重要な儀式のときなどに欠かせないものであり、ケではなくむしろハレの場で使われていた。そのような屏風が西洋に渡り、もっぱらプライヴェートな場で使われるようになったのである。このようなコンテクストの一種の逆転は、扇にも見られたが、ジャポネズリーに関してたびたび生じたと言ってよいだろう。

さて、屏風がつくるそのような小空間を愛したのは、どのような者たちだっただろうか。ヴィッヒマンは、その著書『ジャポニスム』(6)の中に屏風に関する一節を設け、その中で、それが女性だけでなく、芸術家のためのもっとも重要な家具のひとつであったことを述べている。彼に言わせると、当時の画家でアトリエを屏風によって区切らない者はほとんどいなかったのである。プライヴァシーをとりわけ必要としたのは、女性と芸術家であった。ジャポニスムの時代の絵で、室内に屏風が置かれているとき、その傍らにいるのは多くの場合女性であり(q)、ときにはゾラなどの芸術家(p)だったのである。

たしかに、日本の美術工芸品の中にも、いかにも男性の嗜好にあうようなものも存在していた。たとえば刀剣・武具がそうだし、典型的には春画がそうである。《ゾラの肖像》の中で背後に掛けられている相撲絵のようなものも、あまり女性好みとは思えない。しかし概して、日本の美術工芸品は女性の愛好するものだった、ということに私たちは注目しなくてはならない。

ピエール・ロティは、日本を訪れた体験をもとに小説『お菊さん』を書いたが、その中に次のような一節がある(7)

「私は、かつて美しいバリジェンヌたちの家で見た、サロン・ジャポネと称する部屋のことを思い出して、ひとりほほえむのである。その部屋は小さな装飾品であふれ返っており、安っぽく金の刺繍をした輸出物のサテンが広げてあったりした。私は、彼女たちが日本に来て、ここでは見る目のある人たちの家がどのようなものなのかよく観察するように、また、江戸の城館の真白き静寂を体験するように、ぜひ勧めたい。」

ロティが思い出しているパリのサロン・ジャポネ(日本の部屋)にも大小さまざまなものがあったにちがいないが、多くがブードワールつまり婦人室だったと思われる。それは、邸宅の中の奥まったところにある小さな部屋であり、そこに招じ入れられるのはよほど親しい者だけだった。女性たち、そして彼女らの子供たちは、日本のものに取り囲まれてくつろぎ、昼寝し、会話を楽しんだのである(r1,r2)

彼らの邸宅では、大きなパーティが開かれることもあったにちがいない。たとえばルノワールなどのパトロンでもあったシャルパンティエ夫人のように、日本美術を愛するとともに、みずから社交サロンを主催するような女性もいた。しかしサロン・ジャポネのほとんどは、公的・社会的空間の対極にあるもっとも私的空間だったと言える。

しかしながら、たとえば19世紀後半のフランスにおける日本美術の大コレクターとして名を挙げられる者たち、ゴンクール、ビュルティ、シェノー、ゴンスらは、すべて男性であった。一見しただけでは、たとえばエドモン・ド・ゴンクールのコレクションを並べた室内の写真(s)は、女性たちのサロン・ジャポネとそれほど違わない。とはいえ、彼らのコレクションは、質的にも量的にも、彼女たちの部屋とは大きく違っていた。

ボストンのイザベラ・スチュアート・ガードナーが1890年代から積極的な収集を開始するまで、ブルジョワ女性の大コレクターは出現しなかった。それは、女性の画商・批評家・キュレーター・文化行政官がいなかったことと、軌を一にしていたと言える。一方で、女性の画家・詩人・ピアニストはすでにかなり存在していた。つまり、女性は社会の周縁におり、より中心的な部分には許容されなかったのである。コレクションをつくる資力のある女性もいたにちがいないのだが、そもそもコレクションとは、体系性・論理性をもつと同時に社会に対する一種の顕示性をもつものであり、社会的な存在なのである。

要するに、女性たちのサロン・ジャポネは、そのような意味でのコレクションではなく、純粋に自分個人のための安息と充足の空間だったのである。

しかし、そのような女性たちの私的空間こそが、ジャポネズリーのひとつの窮極の落ち着き先だったことは明らかである。日本からもたらされた多数の美術工芸品の中には、万国博覧会といったもっとも公的な場を経て、たとえばロンドンのヴィクトリア・アルバート美術館といった別の公的な場に入っていったものもあった。そして、有力な男性の体系的なコレクションに組み入れられたものもあった。しかしながら、そのような公的あるいは男性的な磁極に引き寄せられていくものよりも、おそらく量的にはるかに多くが、私的・女性的な磁極に引き寄せられていき、それらはそのまま消費され、磨耗して失われていったのではないかと考えられるのである。


→続く




宮崎克己「女性たちの空間」『空間のジャポニスム』第4章、 碧空通信 2012/01/20
Copyright 2012 MIYAZAKI Katsumi
無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。

 


前頁
空間のジャポニスム・扉

アートの発見・トップ




(p) マネ《エミール・ゾラの肖像》1868年、オルセー美術館






(5) Clarence Cook, The House Beautiful, 1878. 次の文献に引用されている。Michael Komanecky, ‘A Perfect Gem of Art’, in Michael Komanecky & Virginia Fabbri Butera, The Folding Image: Screens by Western Artists of the Nineteenth and Twentieth Centuries, Yale University Art Gallery, National Gallery of Art, 1984.

(6) Siegfried Wichmann, Japonisme: The Japanese Influence on Western Art since 1858, London/ New York, 1981, originally published in German, 1980.




(q) ティソ《日本の美術品を見る若い娘たち》1869-70年頃、個人蔵


(7) Pierre Loti, Madame Chrysantème. Paris, 1887(ピエール・ロティ『お菊さん』)35節。引用文の訳は宮崎による。



(r1) クレガール《読書する女》1888年、個人蔵


(r2) ステヴァンス《日本人形を持つ女性》1894年、個人蔵




(s) エドモン・ド・ゴンクールの極東工芸の棚(写真)1886年