空間のジャポニスム |
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第4章 女性たちの空間 (2) |
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コンテクストの中の扇 ところで日本でも西洋でも、扇が使われたのは、涼を取るという実用のためだけではなかった。もちろん、空調・換気の発達していなかった時代であってみれば、風を起こす理由は暑さをしのぐためだけではなかっただろう。しかし、扇という小道具においては、そのような実用を離れた社会的なコンテクストにおける機能も、それに劣らず重要だったと考えられる。 扇は日本の発明品だったのだが、日本ほどこの小物に多様で奥深い意味・役割を与えた国はなかった。かつて吉田光邦は、源平屋島の戦いの那須与一の挿話をめぐってこう書いた。「舟のへさきの竿に立てられた平家方の扇を源氏の勇士が射落とせるか否か、これは実は扇にかけた占いなのであった。高い竿の先にたてた扇は、神霊のより代(しろ)、招(あ)ぎ代である。(略)では、なぜ扇は神のより代となり、招ぎ代たりえたのか。それは扇に招きよせる機能があったことがひとつである。扇を用いて人を招く仕草は古くから行われたことであった」(3)。 扇に対する日本人のこだわりの強さを思えば、古代においてこれに呪術的な意味合いが込められていたことは、想像にかたくない。おそらくそれは、折り畳み式の扇が発明される以前の扇に発していたのだろう。しかしその中核的な意味合いは時代がくだると希薄化・曖昧化し、やがて一種の代替として、「末広」すなわち縁起物として定着したと考えられる。だが、具体的な意味内容が失われたのちにも、扇を開くことには、晴れがましさの感覚や高揚感が伴っていた。扇は、ケの場面よりも、ハレの場面にこそふさわしかったのである。そしてそれゆえ扇は、男性が公式の場面において当然手にすべき物だったことになる。 日本において扇はまた、この招きよせる仕種以外にもさまざまな身振り言語に、重要な役割を果たしてきた。もとより表情や動作で心情を表すことを抑制する傾向のある日本で、扇は、身振りを明瞭化する働きをもっていたと考えられる。その磨かれた集大成として、能をはじめとする日本の舞がある。そしてまた、別の形でのその実例が、現代の落語にも見られる。 しかし、そのような日本の扇の象徴的・記号的なコンテクストは、扇が西洋に伝わったときに、ほぼすべて失われたと言える。とはいえ、西洋人たちもときには、日本で扇が奥深い意味を秘めていることを、内容を理解しないまでも、感じ取ったようである。1885年にロンドンで上演された、ギルバートとサリヴァンによるオペレッタ「ミカド」では、扇が大変目につく小道具だったようだが(h)、それ以前にも西洋人たちは、万博などで目にする実際の日本人たちから、わが国における扇への偏愛、扇を手にした身振りなどに強い印象をもったことだろう。 (i-再掲) モネ《ラ・ジャポネーズ》1876年、ボストン美術館 (j) 浮世正歳《男舞図》寛文年間(1661-73年)頃、ケルン市立美術館 扇を持つ日本人の身振りについては、印象派なども多少の関心を示している。たとえばモネの《ラ・ジャポネーズ》(i-再掲)は、女性に徹底して「日本風」を演じさせている作品なのだが、この扇は、それをもつ手を高く挙げているところからして、単にあおいで自らに風を送っているのではない。扇面をこちらに向け、体をひねって一種の見得を切っているこの姿勢そのものもまた、モネは日本風を模しているつもりなのである。彼はおそらく、日本の舞における、人の目を引きつけるものとしての扇の役割に気づいていたのだろう(j)。西洋の伝統的なダンスに、扇をもって踊るものはなかった。したがって、たとえばルノワールが《田舎のダンス》(k)の中に、踊りながらこちらに向けて扇をかざす女を描いたとき、やはり日本の舞を意識していた可能性が高い。 マネの《扇で顔を隠すモリゾ》(l)は、不思議な絵である。一方で、モリゾのくっきりとした目鼻立ちに惹かれ、彼女を真正面から何枚も描いていたマネが、ここであえて、扇によって顔をおおうポーズで描いたのである。黒衣はあきらかにスペイン趣味を思わせ、黒い扇もまた、黒いヴェールの代わりだったのかもしれない。だがいずれにせよ、この扇の仕種は西洋にはなく、一方日本にはある。たしかにこれは、よもや、平敦盛の首実検をする源義経ではないだろう。この開いた扇で顔をおおう身振りは、かつての日本ではありふれたものだったのであり、三味線などに合わせて歌う者がよく見せたのである(m)。その仕種がマネかモリゾの目に留まり、ここではややコミカルに、それをまねてみているにちがいない。 カサットは、劇場に出かける若いブルジョワの女性たちを何度も描いたが、ほとんどつねにそのうちの一人の手に扇を持たせた。《桟敷席の女性たち》(n)では、若い娘がこれ見よがしに扇を広げ、それによって口元をおおっている。色鮮やかな図柄を湾曲させて描いたこの扇は、おそらく日本のものと思われる。彼女たちの背後は全面が鏡になっていて、彼女たちが目の当たりにしている劇場内の空間が映っている。巨大な群衆にいくぶん気後れしているかのような娘が手にする扇は、心理的な「仕切り」、バリヤーともなっているようである。 日本であれ西洋であれ、扇のもつ視覚的な効力は共通していたと言える。鮮やかな色彩と華麗な意匠の扇は、優雅に押し広げられ、ひらひらと揺れ動くことによって、ほとんど目印と言ってよいオブジェとなる。しかしこれは同時に、顔をなかばおおい隠し、人目を遮断する機能ももっていた。そして人目を遮断するとき、その身振りがかえってまた人目を引くという効果を生んだのである。 それゆえ扇は、高貴な者が人目を避ける習慣のある日本の社会では長いこと、大変便利な道具だった。西洋においては逆に、たとえば国王は、身体ごとすべての人から見えなくてはならない存在だった。しかし19世紀になり、オペラ座などのように不特定多数の、たがいに見知らぬ人間たちの集う大きな場に出るブルジョワジーの女性たちにとって、このように視覚を微妙に調整することのできる道具は、単なるアクセサリー以上のものになったと言える。劇場ではまたオペラグラスも必携品であり、それは舞台だけでなく周囲の観客たちをも見る道具だった(o)。そのオペラグラスと扇とは、視ること、視られることに関してたがいに補完する装置となっていたのである(4)。 この時代には女性のファッションそのものが、格式・富を示すことよりも、群衆の中で人目を引くような視覚的な効果をめざすようになっていた。日本の扇は元来、まさにそのような視覚性・装飾性に富んだものだったのだが、日本からの輸出品はそうした需要に応じてさらに豪華で大型のものになっていった。日本の扇はこうして、西洋近代のファッションや身振りの中に浸透し、影響していったと見ることができるだろう。 →続く 宮崎克己「女性たちの空間」『空間のジャポニスム』第4章、 碧空通信 2012/01/13 Copyright 2012 MIYAZAKI Katsumi 無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。 |
前頁 空間のジャポニスム・扉 アートの発見・トップ (3)吉田光邦「神秘と実用と−扇の二面性−」『日本の文様 扇』光琳社出版、1971年 (h) ラドロー(イラスト)、服装はギルバートによる《「ミカド」の登場人物》1885年、個人蔵 (k) ルノワール《田舎のダンス》1883年、オルセー美術館 (l)マネ《扇をもつベルト・モリゾ》1872年、オルセー美術館 (m) 鳥居清長『絵本物見岡』1785年、東北大学狩野文庫 (n) カサット《桟敷席の女性たち》1881-82年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー (o) カサット《桟敷席の片隅》1879年、個人蔵 (4) Judith A. Barter, ‘Mary Cassatt: Themes, Sources, and the Modern Woman’, in Mary Cassatt: Modern Woman, Organized by Judith A. Barter, The Art Institute of Chicago, 1998. |