空間のジャポニスム
 
アートの発見

 
宮崎克己のサイト

   
第3章

〃仕切り〃 (4)
   
 


ドガの息づく空間

吹抜屋台は、リアリズムからすると極端な逸脱であり、近代西洋の画家たちもさすがに、それを受け入れることができなかった。しかし、日本の屏風は、西洋において室内の調度として喜んで使われ、その「仕切り」としての心理的効果が絵画に表されることがあった。

たとえばステヴァンスの《別れの手紙》
(j)において、恋人から手紙を受け取ったばかりの若い女性が、人目を忍ぶように暗い部屋の片隅にたたずんでいるのだが、その背後には、日本の大きな金屏風が立てられている。フェルメールなど17世紀オランダの風俗画にも手紙を読む女のモチーフは登場するが、彼女たちはこの絵におけるような息苦しいほど狭く仕切られた空間に置かれることはない。身体をかろうじて包容するようなこの空間感覚は、近代的・個人的なものと言える(屏風の機能については〈女性たちの空間〉 の章でまた触れる)


(k) ヴァロットン《午後5時》1898年、個人蔵 (l) 菱川師宣『恋のたのしみ』より(墨摺枕絵本)1683年、個人蔵

ヴァロットンは、昼日中抱き合う男女の、他人から身を隠そうとする心理を、やや俯瞰的にとらえた屏風によって表現している
(k)。こうしたなかば記号化した屏風の挿入は、菱川師宣などの枕絵(春画)(l)に頻繁に見られるものであり、彼はその種のものからヒントを得たにちがいない。ちなみに、師宣のこの絵の上部には霞が見えるが、そこには装飾模様が施されており、それがまさに記号としての霞であることを明示している。そもそも、このような室内に霞が出現すること自体が記号への転化以外の何物でもないのだが、この霞はここでは、屏風、御簾、襖など他の仕切りともども、「遮蔽」のニュアンスを示していると思われる。

さて、ドガがバレエの舞台を描くにあたって、日本の土坡・山の端といった屋外の「仕切り」の表現を転用していたことを述べたが、彼は一般の室内の描写においても、日本絵画の室内の、ある「仕切り」のモチーフを使っていたと考えられる。それは、画面の右あるいは左の縁を上から下まで「縦断する帯」の造形である。

たとえば《舞台上の友人たちの肖像》
(m)ではこのモチーフは、例の、身体を両断して後頭部も背中も見せない人物のモチーフとともに現れる。また、《ルーヴルにて、絵画、メアリー・カサット》(n)ではそれは、日本の軸絵か柱絵を意識したにちがいない縦長の判型、そしてこの帯によって切断された人物表現とともに現れる。西洋にも中世までさかのぼれば、このように画面の縁を縦断する帯の先例があるかもしれないが、こうした他の日本的なモチーフとともに出現するのだから、彼がそれも日本の絵からヒントを得たことは疑いない。彼は少なくとも15点の作品に、この「縦断する帯」を挿入している。一方、この造形は浮世絵の版画・肉筆にもときおり現れるものであり、とりわけ枕絵(o)においては頻繁に出現するのである。

この「縦断する帯」は日本の絵に登場するとき、師宣の「恋のたのしみ」
(l)の屏風などと同じく、人間たち、とりわけ抱き合う男女が閉じた空間にいることの示唆的な表現となっており、そのもっとも簡略化・記号化されたものと見ることができる。実際には、彼らの周囲はもっと遮蔽されていたにちがいないのだが、この「帯」は、部分で全体を示す一種の換喩として使われていると言える。

ドガのこの2点においては、この「帯」は「遮蔽」を示しているというよりも、二人の人物の「親密さ」を示していると思われる。彼らの声は、わずかしかこちらに届いてこないかのようである。しかしドガは、この「帯」のモチーフを女性の入浴や化粧の場面に好んで使ったのであり
(p, q)、その際のニュアンスは、より心理的に閉ざされたものになる。後期の水浴の何点かにおいて彼は、この「帯」が屏風あるいは扉の一部と明確に分かるように描いた。しかしたとえば《ルーヴルにて》(n)で描かれているのは、本来は直角に曲がる壁であり、彼は重厚な建築の一部を、あたかも薄い板であるかのように描いたのである。


(p) ドガ《風呂から出る女》1876-77年、オルセー美術館 (q) ドガ《更衣室の女優》1879-80年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ドガはあるとき、自らの入浴する女性ヌードについて、「鍵穴から覗く」ようなヴィジョンであると説明した
(8)。日本の文学・絵画において「仕切り」は、しばしば「垣間見」をうながした。彼がもっていた清長の《女風呂》(b)にも、番台の男が四角い穴から見えているが、「覗く」という行為についても、ドガは自分の関心が日本絵画にすでにあることに気づいていたにちがいない。《花形バレリーナ》(f)で大道具の背後から覗く男のモチーフは、源氏物語にも伊勢物語にも登場する「垣間見」h, iと関連づけることができそうである。

このように、「視/被視」の関係においても、ドガは日本絵画から多少のヒントを得た可能性があるのだが、しかしまさにその事柄において、ドガと日本絵画のもっとも大きな相違が現れる。

すでに述べたように、《花形バレリーナ》は俯瞰構図を取っており、それによって「仕切り」や人間の位置関係が明瞭になり、それによってそれぞれの心理的関係があらわになっている。この点においてドガはジャポニスムを示している、と述べてきた。しかし、この絵のバレリーナのような、絵を見る私たちを見返す表現は、日本絵画にはきわめて稀である。このドガの絵は、マネの《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》
第2章gなどとも共通するのだが、そのような表現によって、視るという行為、あるいは「視点」が絵を見る者に意識化されるのである。

15世紀の西洋において遠近法が確立した際、その条件のひとつとなっていたのが、「視点」の意識である。デューラーの版画
第1章bは、「視点」というものを鮮明に教えてくれる。そもそも西洋では、あらゆる行為において主体と客体が明瞭に分離し、それが意識化される。絵画でも、「誰」が見ているヴィジョンなのかが問題になる。一方、日本絵画において、そのヴィジョンの視点が「どこ」にあって、「誰」が見ているかは、ほとんど意識化されることがない。したがって本来、上から見下ろすという意味での「俯瞰」という言葉すら、日本絵画においては限定的にしか使えないのである。日本の、たとえば洛中洛外図のような、広大な風景を見渡したかのような光景も、「誰かがある地点から見ている」というより、その光景が「見えている」あるいは「イメージが共有されている」、と理解した方がふさわしいにちがいない。吹抜屋台g, iも、誰かがその視点から見ているなどとは受け取るべきではなく、この「仕切り」の表現によってそこに人間関係が見えてくることこそが重要なのである。

それに対して、とりわけ19世紀のドガや印象派は、あたかも身体をもった「自己」が、その特別な視点から、ある特別なときに、その情景を見ているかのようなヴィジョンを、好んで描いたのである
(このことについては〈西洋近代の空間〉の章でまた考える)

さて、ドガの《カフェ・テラスの女、夕方》
(r)は、右に述べた「縦断する帯」が画面の縁ではなく中央近くに現れたケース、と見ることができる。画面やや左では帯状のものが上から下まで縦断しており、その背後にいる女を二分している。この表現は、喜多川歌麿の『青楼年中行事』の一枚(s)に近い(9)。この歌麿の絵では、「仕切り」と呼べるのは襖だけだが、柱と廊下によって空間が複雑に区切られており、人間の集団や個人がそれぞれ区切られた空間を分有しているようである。酔いが回って片方の草履が脱げ、柱にもたれている遊女の描写は印象的であり、のちに菊川英山が、この部分だけを取り出して一枚にし、またビンクは、『ル・ジャポン・アルティスティック(芸術の日本)にこの部分だけをトリミングして掲載した。

《カフェ・テラスの女、夕方》では、おそらく売春婦と思われる四人の女のあいだには会話がない。街路を去っていく背後の男は、広重の《東都三十六景》の一場面
第2章nを思い出させなくもないが、このドガの男には、やはり孤独の影が宿っている。それぞれがごく狭い、縄張り的な小空間に囲まれており、その中でひそやかに生息しているように見える。

ドガが描いた人間たちの多くは、影のように存在感が希薄で、気づかぬうちにいつしか消え去ってしまいそうである。別の見方からすると、映像的なのである。彼の仲間であったマネ、ルノワールらの人物像は中身の詰まった量感をもっていて、いわば自律的存在なのだが、ドガの描く入浴の女にはそうした実体的な重みはない。ドガは「環境」によって、「空間」によって、あるいは「仕切り」によって、はじめて存在を確認しうるような人間のイメージ、近代人の一つの典型的なイメージを描き出した、と言うことができるだろう。ドガの場合、空間こそが確かな存在感をもっているのである。

吹抜屋台を使って源氏物語の一場面を描いたものの中に、「留守模様」とも呼ばれる、人物の不在のものがある
(t)。「仕切り」によって囲まれた空間は、それ自体、人の気配のする、人間化された空間である。ドガの《カフェ・テラスの女、夕方》においてもまた、息づいているのは人間たちというよりも、空間であるように見える


→続く



宮崎克己「〃仕切り〃」『空間のジャポニスム』第3章、 碧空通信 2011/12/30
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。

 



前頁
空間のジャポニスム・扉

アートの発見・トップ


(j) ステヴァンス《別れの手紙》1867年頃、オルセー美術館


(m) ドガ《舞台上の友人たちの肖像》1879年、オルセー美術館


(n) ドガ《ルーヴルにて、絵画、メアリー・カサット》(16ステート)1879-80年、シカゴ美術館



(o) 伝 勝川春英「秘画巻」より、《吉原の遊女》1789-1801年、大英博物館



























(8) よく引用されるドガのこの言葉は、アイルランドの作家ジョージ・ムーアに対して語られたものである。George Moore, “Memories of Degas”, Burlington Magazine, XXXII: 179, Feb. 1918, p.65.



























(r) ドガ《カフェ・テラスの女、夕方》1877年、オルセー美術館


(s) 喜多川歌麿「狎客之堅舗」『青楼年中行事』より、18世紀末


(9) Bernard Dorival, ‘L’Influence de l’estampe japonaise sur l’art européen’, in Japon et Occident, Deux siècle d’échanges artistiques. Kodansha International, 1976, p.45.















(t) 《帚木図屏風》17世紀、個人蔵