空間のジャポニスム
 
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第2章

ジャポニスムの開始 (4)
   
 


マネにみる空間の亀裂

マネの《団扇の女》
(a)(前節)は、日本の美術工芸品が西洋の私的空間に導入されて始まった「室内のジャポニスム」をよく示す作例であった。これ以前マネは《アストリュックの肖像》(1866年、ブレーメン美術館)の中に和綴本を、《ゾラの肖像》(1968年)では日本の屏風と浮世絵を、《ベルト・モリゾの肖像》(1870年、ロード・アイランド・デザイン学校美術館)では浮世絵を、描き入れている。それでは彼の絵画の造形そのものに、日本美術は、いつ、どのような形で、影響を及ぼし始めただろうか。ここで、マネにおける絵画空間の問題を少し考えてみよう。

マネの最初期の作品の中で、日本からの影響が多少とも指摘されているものとして、ともに1860年代初頭の《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》
(g)《老音楽師》
(j)がある。そして、これらの作品の空間構成は、当時から比較的最近まで、悩ましくも理解しがたいものと見なされてきた。たとえば、今から半世紀ほど前に美術史家リチャードソンは、「もしかすると、マネには視覚障害でもあったのかもしれないが、大きさの感覚がたえず狂いやすいという弱点があった」などと述べた(14)。この二つの作品では、登場人物たちのあいだの大小関係や位置関係が、うまく説明されていないというのである。

この意見に対してボウネスは真っ向から反論し、これらが「欠陥」なのではなく意図的な表現なのだと主張した
(15)。彼は、「マネほどの美術教育を受けた者は、その気になれば大小関係や遠近法を正確に描くことだってできたはずだ」と言う。彼によると、「マネがつねに強調していたのは、絵画表面のデザインであり、彼はそのためときに日本風の線的なパターンも使った」。

ハミルトンは、《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》そのものについて、「マネはこの絵の構図において、伝統的な遠近法空間の制約から解放された装飾的な図柄の中に、リアリスティックな人物を配置するため、日本の浮世絵を観察した可能性がある」と述べている
(16)

本書の冒頭において述べたように、遠近法を基準として近代絵画におけるヴィジョンの「歪み」「不正確さ」を批判する言説は、意外に最近まで続いてきた。そしてそれに対して、絵画の「装飾性」「平面性」を拠り所として反論する言説が展開され、そのようなときに、日本美術からの影響が語られてきたのである。

1861年の末にボードレールが浮世絵を配った友人たちの中に、マネがはいっていた可能性は十分ある。この前後のマネにジャポニスムが見られるとしても、早すぎることはないのである。ところで、《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》に関して、このように何人かの評者からジャポニスムが漠然と指摘されてきたのだが、それでは影響源としての日本美術とは、具体的にどのようなものでありうるだろうか。

この絵を遠近法的な観点で見たとき、画中のすべての者が平坦で水平な地面の上にいるはずなのに、手前の女は、奥に小さく見える闘牛士・馬・見物人などに比べると、妙に高い位置におり、まるで小さな丘の上にいるかのように見える。地面を明暗に隈取っていることによって、その感覚は減じられるどころか、むしろ強められているようである。

しかしこのような位置関係は、日本絵画、とりわけ江戸末期の浮世絵には珍しくない。そのことをもっとも分かりやすく示すのが、とりわけ北斎以後の浮世絵で繰り返し描かれた「潮干狩」のモチーフである
(h)。日本絵画の屋外描写においては、土地の高低が含まれるのが普通なのだが、潮干狩のように水面がある場合には、当然高低がなくレヴェルが等しいはずである。それなのに、背後に小さく見える人物たちの画面上の位置は一定せず、前景の人物の頭の上に描かれるかと思えば、ときに、腰よりも下に描かれたりする。

実は、このように人物の大小を手前と奥で極端に描き分ける表現は、もともと日本にあったのではなく、西洋から導入されたものを日本人なりに理解し、変形させたものだった。日本人もまた、遠近法理論を熱心に勉強したのだが、それでも、前景と後景を統一した遠近法空間に収めることには、ほとんど興味をもたなかった
(これについては、〈透かし〉の章 で検討する)。そのような日本美術の融通無碍の表現が、マネの目にとまったということなのではないだろうか。

ところで《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》の後方で壁を乗り越えて闘牛場に入ってくる者の下半身だけの唐突な表現もまた、浮世絵、たとえば鳥居清長の《女風呂》
(i)などを連想させる。

次に、《老音楽師》
(j)についてもまた、日本美術からの影響が指摘されている(17)。この絵の右縁にいる、おそらく長い髭をたくわえたユダヤの老人は、画面の枠で切れている。この作品は、スペインの画家ベラスケスの《バッカスの勝利》(k)を下敷きにしたものであることが分かっており、たしかにこの絵ですでに右縁の人物は画面枠で二分されている。しかしマネの絵では直立した人物がいわば一刀両断にされており、後頭部も背中も描かれていないのである。

この効果をマネは気に入ったと見えて、十五年後の《ナナ》
(l)でも使っている。またドガが《コンコルド広場》で、そしてカイユボットが《ヨーロッパ橋》(m)で使っている。この画面枠で切断される人物の表現は、典型的に当時の人たちにも「ジャポニスム」を感じさせるような表現だったようである。ちなみに、これらのうちカイユボットの作品では、後ろ向きの人物が画面枠で切断されており、広重の《東都三十六景 両国橋》(n)を想起させる。

しかしマネの場合、真横を向いた人物が切断されており、その源泉は違うところにあったように思える。この表現について、デボラ・ジョンソンは日本の掛軸から来たと考えるが、むしろ柱絵と呼ばれる浮世絵
(o)の類だったのではないだろうか。

この《老音楽師》の左から現れる樹木の表現もまた、19世紀前半の日本絵画に頻繁に見られるものである。マネが参考にしたベラスケスの絵では、樹幹が左縁に沿って下まで降りているが、マネの絵では、突然画面上部で左から木の枝が顔を出すのである。扇絵や浮世絵などでは、いきなり画面の上から降りてくる枝のモチーフは、一種の定型になっていた
(これについては〈透かし〉の章で触れる)

さらに、《老音楽師》の、「散漫」と非難されることの多い人物の配置も、日本の絵画を見慣れた者には、それほど不思議ではない。日本の風俗画では、登場人物たちすべてが特定の関心に集中することなどほとんどないのである。「散漫」さは、いずれ述べることになる「散らし」のひとつの表現であり、それは日本人には「自然」なのである
(〈散らし〉の章)

やはり1860年代初頭のマネの作品である《少年と犬》
(p)においても、ジャポニスムがうかがえる。マネはこの絵を描くにあたっては、やはりスペインの画家ムリーリョの《少年と犬》(q)を下敷きにしたことが知られている。しかしここでも、マネはもとの絵から、空間構成においてある種の飛躍をしているのであり、その際に日本の浮世絵などを参考にしたと考えられる。

それはとりわけ、少年の視線と犬の視線との関係に言える。ムリーリョの絵では、双方の視線が交わっており、その結果、双方の奥行の中での位置関係が明瞭になっている。それに対して、マネの絵において、少年が犬の方を見下ろしているのに対して犬は真横を向いており、しかも犬の鼻先と籠とのあいだにわずかのすき間があるため、少年と犬の位置関係は、かなりあいまいである。マネはここでも、遠近法から演繹される「定位置」を意図的にずらしているように見える。

マネにとって「視線」は、表現の決め手とも言える重要性をもつものであり、そのような画家が日本の浮世絵などを見たときの驚きはどれほどだっただろうか。ここで比較のため、やはり犬が描かれており、視線が交わされている歌麿の絵
(r)を見てみよう。日本の絵画では、二人の人物が重ならないとき、その奥行の前後関係はきわめてあいまいである。また、西洋絵画におけるように、視線が交わることによって遠近法空間が補強されることもないのである。

このマネの《少年と犬》において、背景が完全に空でおおわれていることも、西洋絵画ではきわめて珍しいことである。一方、日本の絵画では、モチーフが「地面もなく宙に浮いている」ということが、当時から西洋人には不思議に見えていた
(18)

一八六〇年代初頭のマネによるこの3点の作品
(g,j,p)は、いずれも遠近法空間から大胆に離反していく意図をもっており、その際に、具体的に日本のどの作品とは特定できないものの、日本美術からヒントを得ていたことを推測しうるだろう。

さて、これら3点ですでに歴然としていることだが、いずれもジャポニスムよりもはるかに強く、スペイン趣味を表明している。「スペイン趣味が、日本趣味におおいかぶさっていた」
(ベルガー)(19)のである。

この時代、マネに限らずフランスでは、スペイン趣味が一世を風靡していた。マネも初期の段階においては、ジャポニスムを公然とは見せないでいた。当時のフランス人にとって、あるいはマネにとって「スペイン」、あるいは「日本」が言外に意味していたもの
(コノテーション)とは何だったのか、興味深いところである。19世紀前半から中頃にかけてのオリエンタリズム(オリエント趣味)がやや衰え、一方でスペインという近隣の国へ、他方で日本というはるか遠方の国へと二分したとも考えられる。

マネという画家は、絵画空間の統一性・一体性を意図的に避けていたと考えられる。彼の絵に登場する人物たちは、それぞれが独特の空気を周りに持ち運んでいる。個人個人が、小さな空間の中で孤立しているかのようである。絵画の中の空間に亀裂がはいり、各所でずれを生じているように見える。絵の登場人物たちが私たち観客を見るまなざしにも共感はなく、そこにも空間の断絶が呈示されているのである。

《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》
(g)には、もうひとつ重要な仕掛けがある。つまり本来男であるべき闘牛士が、ここではなまめかしい女なのである。この男装の姿は、煽情的ですらある。モデルになったヴィクトリーヌ・ムーランは、《草上の昼食》や《オランピア》でヌードになって登場する女性である。この《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》は、1863年に《草上の昼食》とともにサロンに落選し、落選者展で2点が並べて掛けられた。《草上の昼食》の緊張した、そしていくぶん謎めいた男女関係と同じ感覚のものが、ここにも表現されていると言えるだろう。

マネの分断された視線、そして分断された空間は、それまでにはない新しい個人主義の表現であった。もっとも、マネが参照した日本美術では空間に亀裂が走っていたり、人と人とのあいだに分断があったりするわけではない。日本にはまだ、近代的な「個人」の自覚はなかった。しかしまた日本には、全体を一挙に収容するあの絶対空間もなく、すべてが相関的にとらえられていたのである。マネは、そのような日本美術から、個人主義の表現のためのヒントを得たということになる。


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宮崎克己「『空間』の再定義」『空間のジャポニスム』第2章、 『アートの発見』碧空通信 2011/10/28
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(g)マネ《闘牛士の扮装をしたヴィクトリーヌ嬢》1862年、メトロポリタン美術館

(14)John Richardson, Edouard Manet, Paintings and Drawings, 1958, 1962. ジョン・リチャードソン『マネ』三浦篤・田村善也訳、西村書店、1999年。ただし引用文の訳は宮崎による。

(15)Alan Bowness, “A note on ‘Manet’s compositional difficulties’”, Burlington Magazine, June 1961, p.277.

(16)George Heard Hamilton, Manet and his Critics, New Haven & London, 1954, 1969, p.52.


(h)歌川国貞《汐干景》19世紀中頃、品川歴史館


(i)鳥居清長《女風呂》1787年、ボストン美術館


(j)マネ《老音楽師》1861-62年、ワシントン、ナショナル・ギャラリー

(17)Nils Gosta Sandblad, Manet: Three Studies in Artistic Conception, Lund 1954; Jacques Dufwa, Winds from the East: A Study in the Art of Manet, Degas, Monet and Whistler, 1856-86, Uppsala, 1981; Deborah Johnson (5), p.212.


(k)ベラスケス《バッカスの勝利(酔っぱらいたち)》1628-29年頃、プラード美術館


(l)マネ《ナナ》1877年、ハンブルク、クンスト・ハレ


(m)カイユボット《ヨーロッパ橋》1876-77年頃、フォートワース、キンベル美術館


(n)歌川広重(二代)《東都三十六景 両国橋 古色会席上》1862年、国立国会図書館


(o)喜多川歌麿《浮世八景 若衆の帰橋》1801-04年頃、ギメ美術館


(p)マネ《少年と犬》1860-61年、個人蔵


(q)ムリーリョ《少年と犬》1660年頃、エルミタージュ美術館


(r)喜多川歌麿《浮世七ツ目合 辰戌》18世紀末、ギメ東洋美術館

(18)フロイドは、次の著作において日本絵画の「構図と遠近法」についての西洋の初期の批評を概観している。「宙に浮いている」と批評したのは、いずれも1860年代のオールコック(Alcock)とジャーヴス(Jarves)である。Phylis Anne Floyd, Japonisme in Context: Documentation, Criticism, Aesthetic Reactions, Ann Arbor, Michigan, 1983, p.262.

(19)Klaus Berger, Japonisme in Western Painting from Whistler to Matisse, translated by David Britt, Cambridge, 1992, originally published in München, 1980, p.25.