空間のジャポニスム
 
アートの発見

 
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第3章

〃仕切り〃 (1)

   
  ドガの舞台装置

ジャポニスムが最初のピークを迎えたのは、1878年のパリ万国博覧会の前後だった。このころ日本の美術工芸品がパリのブルジョワたちのあいだで大流行となり、印象派などの画家たちはそこからさまざまな発想を得た。

ドガもまた、この時期には日本美術を研究することに熱中していたようである。この万博のためにフランスに来ていた日本画家・渡辺省亭が、数人のジャポニザンを前に席画、つまり即興制作をして見せ、その場に居合わせたドガに、そのときに描いた一枚
(a)を贈呈した。おそらくその席には、やはりこの万博のために通訳としてフランスに来ていた林忠正もおり、ドガはそのとき彼とも知己になっただろう。林は、数年後にパリで日本美術を扱う店を開き、さらに印象派のほかの何人かと親しくなった(1)。ドガはのちに、自分のデッサンと交換で、彼のもっていた鳥居清長の《女風呂》(b)を入手した。ドガは膨大な数の美術品のコレクションをつくり、また多数の浮世絵をもっていたのだが、《女風呂》は彼の最愛の浮世絵だったらしい。ちなみに、残念ながらこのほかの彼の日本美術作品は、わずかしか特定できない。

さて、ドガの絵画への日本美術の影響については、多くのことが指摘されてきた。ベルガーによると、1865年の《花瓶と婦人》にすでにジャポニスムが現れているという
(2)。とはいえ、ドガは日本美術から得たものを徹底的に咀嚼していたので、明瞭にそれと分かる実例は少なく、研究者の中には、彼にとってのジャポニスムを、その芸術の中のごく片隅のこととしてかたづける者も少なくない。

ドガの作品の中で、1878年から80年にかけての一連の扇面画
は、疑いもなく日本美術との関連を示しており、その意味で、彼のジャポニスムの方向と深度を確認するうえで重要である

ドガが描いた25点の扇面画について、重要な論文を書いたガーステインによると
(3)、扇面というこの特殊な判型の絵が、1870年代の後半に、保守的な画家たちの牙城であったサロン(官展)でもはやっていたという。ただし、この扇面形式の幅広い流行が、どこまでジャポニスムだったのかは分からない。

画面形式として、団扇が西洋近代の画家たちを刺激することがなかったのに対して、扇はかなりの刺激を与えた。そしてとりわけドガ、ピサロ、ゴーギャンなど前衛的な画家たちの場合、扇面という枠は、遠近法の固定的な「空間容器」の効力をなし崩しにする絶好の実験室だったのである。

ドガの扇面画のうち19点までが、1878年と80年の間に描かれた。そして、1点を除くとすべて、バレエの舞台を題材にしている。この時期の彼の扇面画への熱中ぶりは、彼が、1879年の第4回印象派展にあたって、それだけで一部屋をつくろうと計画したことからもうかがえる。結局、ドガが5点、フォランが4点、ピサロが12点の扇面画を出品したのだが、扇面画ギャラリーの実現にまではいたらなかった。

(c1) ドガ《踊り子たち》1879年、メトロポリタン美術館

さて、この時期の扇面画の一枚、《扇-踊り子たち》
(c1)は、絹の上に金と銀で彩色してある。それだけで、当時西洋人が好んだ金箔・金泥などによる日本の扇を彷彿とさせる。そしてこの構図を観察してみると、実際に彼が日本の扇を参考にしたにちがいないことが分かるのである。ここでは比較のために、17世紀初めの俵屋宗達あるいはその工房による一点(d)を挙げるが、扇面画は同じ構図のものが繰り返し反復されるジャンルであり、この種の造形は幕末・明治時代まで伝わっていたと考えられる。

ドガのこの扇面画には、それまでの西洋絵画にはなかった空間構成上の試みが見られ、しかもそのいずれもが、日本の扇面画にはすでにあったものである。第1に、画面内における人物の偏りである。3人のバレリーナは、くり抜かれた中心部の半円形に思い切り片寄せられており、それによって上部にぼっかりと大きな余白ができている。
(「偏り」については〈散らし〉の章ででまた考える)。扇面の場合、余白の効果がより印象的になるせいか、日本でもほかのジャンルと比べて偏りの傾向は強く、左右あるいは湾曲した下部にしばしば人物が片寄せられるのである。

第2に、水平面あるいは鉛直軸の曖昧化である。日本の扇面画の大多数に共通する重要な特徴として、画面内の鉛直軸がつねに扇の要を向いていることが挙げられる。その結果、画面の左右に描かれた人物は、直立していてもそれぞれ違う傾きをもつことになる。そして水平線・地平線が、扇面の湾曲に沿ってカーブするのである。これは西洋の発想ではありえないことで、事実、17世紀以来の西洋の扇面画のほとんどにおいて、水平線は画面を真横に貫く直線として表わされる。このドガの作品では、日本的な空間をそのまま再現しているわけではないのだが、3人のバレリーナそれぞれが傾いたポーズを取っていて、その結果、この絵の中の水平面・鉛直軸は把握しようのないものになっている。

(c2)ドガ《舞台上の踊り子たち》1879年頃、個人蔵

ところで、このドガの扇面画には、空間構成上もうひとつ、独特の試みがみられるのだが、ここではそれを共有する《舞台上の踊り子たち》
(c2)を見ながら考えてみよう。これらにおいてバレリーナたちは、斜め上から見下ろされているかのように描かれている。それを示しているのは、彼女たちの下半身を隠している漠然とした形のもの、舞台の書き割りである。ここでは、頭など上半身だけが大道具越しに描かれるという、ほかのいかなる画家も思いつかなかったような特異な形でとらえられているのである。当然客席からそのように見えるわけはなく、ドガはそのような角度から見るために、舞台よりはるか上の機械室まで登ってスケッチしたらしい(4)。それではこの構図のねらいとは、何だったのだろうか。

ドガが、日本の扇面画をかなりよく研究していたことを考えるなら、彼のこの構図は日本絵画の土坡と金雲
(または霞)の造形を翻案したものだった、と推測することができるだろう。ここでは比較のため、これも図像として広く定着していた源氏物語の関屋の場面を描いた扇面画(e)を挙げておく。

この前後数年間、ドガはバレエの舞台を集中して描いた。彼のねらいは、もちろんひとつにはバレリーナの一瞬の美しい姿を描きとめることにあった。しかし実は、それ以上に彼は、バレリーナたちと客席、そして舞台裏の視覚的・心理的関係、「視る/視られる」の関係に強い興味をもっていたのである。たとえば《花形バレリーナ》
(f)では、踊り子の視線は桟敷席の方を見上げているようだが、背後には、出番を待つ数人のバレリーナと、さらに一人、この場に不似合いな黒いスーツの男が、それぞれ体の一部だけを見せている。この男は、劇場の支配人や演出家である可能性もなくはないが、同時代の作家たちが描いた舞台裏の情景などから判断して、バレリーナのパトロン、あるいは愛人である可能性が高いと考えられている。多く貧しい出だった彼女たちは、しばしば金持ちの男の愛人になることを願望していたのである。

この舞台上の大道具、すなわち薄っぺらで大味ではあるものの一種の絵画でもあるこの書き割りが、欲望のこもった人間関係を表現する「仕切り」となっている。つまり表情や身振りではなく、この書き割りをはさんだ人間たちの位置関係が、彼らのあいだの微妙な意識を表現しているのである。

演劇的な仕切りへのドガの関心は、歴然としている。《仮面をつけた者たちの入場》
(g)では、観客からの視線を浴びる仮面の踊り子たちと、大道具の背後で一瞬の休息をとっている者たちが、鮮やかに対比されている。《幕》(h)においては観客と舞台裏の踊り子、そしてパトロンたちの欲望をはらんだ関係が、いっさい顔を描かずに、書き割りと幕によって表現されている。扇そのものも同じような役割をもつことがあり、《花束をもつ踊り子》(i)では、いわば異次元世界である舞台と観客席のあいだの距離が、舞台そのものではなく、扇によって視覚化されている。

このように人と人の関係を示す「仕切り」としての舞台装置などに特別な関心をもつドガは、いつのころからか、日本絵画の造形にそれとまったく同等のものがあることに気づいたのである。たとえば伊勢物語の中の有名な場面のひとつを描いた《宇津の山図屏風》
(j)において、山々は、まるでドガの《花形バレリーナ》(f)の舞台装置のように厚みをもたない。この絵で、恋しく思う都の人への歌をたずさえて、いま僧侶がたち去って行き、それを主人公は眺めやっているのだが、その心理的な距離感が、表情や身振りではなく、山の端(は)になかば隠れた僧侶の造形によって表現されているのである。

日本絵画においては、さきに掲げた源氏物語の扇面画
(e)でもそうだったが、「旅」はきわめて多く、人物の下半身を隠す山の端、土坡、霞、金雲のいずれかによって表現される。これはきわめて定型化された造形であり、それらを一種の記号と見なすこともできる。「旅」はまた、時間を内包した長い距離、つまり空間の表現でもある。そしてそこには多くの場合、遠く隔たった親しき者への思いがこめられる。この扇面画では、旅の途上ですれ違ったかつての恋人たちの心理的関係が、金雲によって隔てられた二台の牛車によって空間的に表現されている。

このような示唆的な空間、人と人の関係が生み出す相関空間を、ドガはおそらく日本の扇面画を参考にしつつ、たとえば《舞台上の踊り子たち》
(c2)で実現しようとしたと考えられる。彼はとりわけ、土坡の上にのぞく顔の表現を取り入れたかったにちがいない。この絵で観客席は右上奥の暗い部分にあり、右隅の踊り子はまさに観客の視線を浴びており、一方左上の踊り子は出に備えている。土坡越しに見える踊り子たちは、舞台の上に並んでいて、次の動きを待っているのだろう。舞台装置を介在させた踊り子たちの位置関係が、それぞれの立場、心理的状況を表現している。全体を俯瞰した構図は、この表現の効果にとって不可欠と言える。そしてこれらすべては、日本の扇面画の表現と対応しているのである。ドガは日本絵画の土坡・金雲をバレエの舞台に置き換えたと言うことができるだろう


→続く

宮崎克己「〃仕切り〃」『空間のジャポニスム』第3章、 碧空通信 2011/12/02
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(a) 渡辺省亭《枝にとまる鳥》1878年:クラーク・アート・インスティチュート (ドガへの献辞入り)


(b) 鳥居清長《女風呂》1787年、ボストン美術館

(1) 林忠正については近年、めざましく研究が進んだ。次のシンポジウム報告および巻末の文献リストを参照されたい。林忠正シンポジウム実行委員会編『林忠正――ジャポニスムと文化交流』〔日本女子大学叢書(三)〕ブリュッケ、2007年。

(2) Klaus Berger, Japonisme in Western Painting from Whistler to Matisse, translated by David Britt, Cambridge, 1992, originally published in München, 1980, p.50.

(3) Marc Gerstein, “Degas’s Fans,” Art Bulletin 64, no.I (March 1982), pp.105-18; Jill DeVonyar, Richard Kendall, Degas and the Art of Japan, Reading Public Museum, Pennsylvania, 2007.










(d) 伝俵屋宗達《扇面貼付屏風》17世紀:宮内庁三の丸尚蔵館





































(4) Jill DeVonyar, Richard Kendall, Degas and the Dance, Philadelphia Museum of Art, 2002.





(e) 土佐光則(伝)《源氏物語画帖 関屋》江戸時代初期:根津美術館


(f) ドガ《花形バレリーナ》1876-77年、オルセー美術館


(g) ドガ《仮面をつけた者たちの入場》1879年、クラーク・アート・インスティチュート


(h) ドガ《幕》1880年頃、ポール・メロン・コレクション


(i) ドガ《花束をもつ踊り子》1877-78年頃、ロードアイランド・デザイン学校美術館


(j) 深江芦舟《宇津の山図》18世紀中頃、クリーヴランド美術館