空間のジャポニスム
 
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第3章

〃仕切り〃 (2)

   
 


境界・障壁・結界

ドガの描くバレエの舞台と日本の古典的な絵画とが、このように「仕切り」のモチーフをめぐって、意外な接点をもっていたことになる。「仕切り」はそれぞれにおいて、人と人の関係の表現となっており、絵画の中に空間を生み出していたのである。しかしもちろん、ドガの「仕切り」が表現した人間関係と、日本の「仕切り」が表現したそれとは、かなり違っていたはずである。また、19世紀フランスの人間たちがもっていた空間意識と、日本人たちが長いこともっていたそれも、大きく違っていたと考えられる。しかし、それゆえにむしろ、「仕切り」という共通項を介して、遠く離れた日本と西洋の文化を比較することは、興味深いことにちがいない。ここで日本文化における「仕切り」について、古い時代までさかのぼってすこし考えてみよう。日本人は、複雑かつ多彩な「仕切り」の文化を築いてきたのである
(5)

「仕切り」という言葉は、動詞「仕切る」の名詞形なので、主として人工的な障壁のことを指すのだが、日本人は多くの場合、自然の障碍をも、人間的・社会的・霊的なものとして受けとめてきた。たとえば奈良盆地、すなわち日本の古代国家の揺籃の地は、それほど険しくはないが幾重もの山並みにとり囲まれており、人々は親しみをこめてそれを「青垣」にたとえることを習わしとしていた。また、伊勢物語の有名な「宇津の山」や「八橋」は、それぞれ大きな境界をなす峠、川の地点なのだが、そのような場所は古代の人間たちが異界への閾
(いき)と見なし、そこにおいてしばしば何らかの呪術的・宗教的な行為をしたり、標識を立てたりしたのである。

東洋であれ、西洋であれ、自然の大きな障碍はどこにでも存在するのだが、狭小かつ山がちで、変化に富む地形の日本ほど、さまざまな自然の障碍が入り交じる土地は、それほど多くないと言える。それらはけっして、人間たちを圧倒し、完全に拒絶するのではなく、人と人を分かつ境界、あるいはこの世と向こうの世界との間の敷居と見なされてきたのである。

ところで、江戸初期の《源氏物語画帖 関屋》
(e)のように山の端、あるいは雲の向こうに人物の上半身だけを描くような表現は、すでに十二世紀の有名な《源氏物語絵巻》の同じ「関屋」の場面に見られる。その時代に確立したこの記号的表現が、江戸初期はおろか、連綿と幕末・明治期にまで伝えられたのであり、ドガはそのようなものを見て扇面画などの表現として使ったと考えられる。

さて実は、「関屋」の場面のような自然の中の設定は、この《源氏物語絵巻》では例外的である。この絵巻の現存の場面としては、それ以外のすべてが、室内の人物たちのあいだ、あるいは室内と屋外の人物たちのあいだで展開する物語の情景なのである。そしてそこにおいて、「仕切り」がきわめて効果的に、しかもふんだんに、画面の中に表現されている。

たとえば「柏木」の巻を描いた一枚
(f)には、いくつもの几帳(きちょう)が所狭しと立て回されており、右奥には障子(現代の「襖」)がわずかに顔を出す。この絵巻の他の室内の場面では、御簾(みす)、屏風、衝立(ついたて)も頻繁に登場し、また庭と接するあたりには、板戸、格子、高欄(こうらん)、透垣(すいがい)、籬(まがき)などが見られる。

日本では、室内とその周辺の仕切りは、きわめて多種多彩であった。少し時代が下ると、明かり障子、暖簾、幔幕なども登場する。

仕切りというものはたしかに、どの時代・国にも存在するものである。とりわけ、敵や盗賊から身を守るための城壁、土塁、築地、柵などがまったくない社会はほとんど存在しないと言ってよいだろう。そしてこうした物理的な障壁だけでなく、社会的・心理的・霊的な仕切りもまた、多くの社会に見られるものである。とはいえ日本の「仕切り」はとりわけ、おそらくほかではそれほど例がないほど多彩である。そしてまた、いったん暴力に訴えられたらまったく役に立ちそうもない脆弱なものが多く、逆に言うと、象徴性が強いのである。

その典型的な例として、これは室内のものではないが、神社の鳥居、注連縄
(しめなわ)、紙垂(しで)などを挙げることができるだろう。それらは外敵による侵入にはまったく無力に見えるが、日本人たちは、悪霊を内側に許容しない強い呪術性をそれらに期待していた。エリアーデが語ったとおり、そのような象徴的な結界もまた、どの民族にもとりわけ古代において見られるのだが(6)、日本では中世・近世になってもその効力が保たれた。

能舞台の揚げ幕は、異界への仕切りとして意識されていた。あるいはまた扇すら、霊的な攻撃に対するバリヤーとして使われることがあった。たとえば歌舞伎の「一谷嫩軍記
(いちのたにふたばぐんき)」の「熊谷陣屋(くまがいじんや)」の場において、源義経は平敦盛の首実検をするとき、開いた扇の骨の間から見るのである。

日本の空間は「開放的」であると、よく指摘される。しかし実のところ、物理的に開放的であっても、けっして均質に連続する空間なのではなく、幾重にも錯綜した仕切り、あるいは結界による、意味性においてかぎりなく色分けされた空間なのである。「仕切り」は、日本の建築空間・都市空間・庭園などを語るための、避けて通れないキーワードと考えることができる


→続く



宮崎克己「〃仕切り〃」『空間のジャポニスム』第3章、 碧空通信 2011/12/09
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(5) 柏木博は「仕切り」をめぐって、日本や西洋の呪術的・宗教的なものから現代におけるインターネットのファイヤー・ウォール、事務所内の机の配置にいたるまで論じている(『「しきり」の文化論』講談社現代新書、2004年)。
















(e)(再掲) 土佐光則(伝)《源氏物語画帖 関屋》江戸時代初期:根津美術館








(f)《源氏物語絵巻 柏木その一》12世紀中頃:徳川美術館




















(6) ミルチャ・エリアーデ『エリアーデ著作集(3)』「第10章 聖なる空間—寺院、宮殿、〈世界の中心〉」(久米博訳、せりか書房、1974年)