空間のジャポニスム
 
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第2章

ジャポニスムの開始 (1)
   
 


ジャポニスムとは

ジャポニスム
(日本趣味)とは一般的に、「19世紀後半の西欧芸術に見られる日本の影響現象のすべて」を指している(1)。本書も、浮世絵などから印象派などへの造形的な影響を、空間に着目して考えることを中心的な課題のひとつにしているのだから、このジャポニスムの定義を踏まえていることになる。

しかし一方で、すでに述べたようにここでは、空間の問題を絵画の中だけでなく、絵画の外、すなわち日本の美術工芸品の受け皿となった西洋の室内空間にまで拡げて考えようとしており、おのずと従来のジャポニスムの定義から、かなり大きく踏み出すことになる。

すでに多く語られてきたことだが、この時期に美術の分野でヨーロッパ随一の活況を呈していたパリにおいて、ジャポニスムは、1860年代初頭から多数の画家・芸術家たちによる反応として跡づけることができる。初期の代表的なジャポニザン(
日本文化愛好者)としては、文学者のゴンクール兄弟、ボードレール、評論家・コレクターのビュルティ、シェノー、版画家のブラックモン、そして画家のマネ、ホイスラー、ティソ、ドガ、ステヴァンス、モネといった名前を挙げることができる。

そして、このように名前を列記しただけで気づくのだが、これらのある者は日本美術の「評価」を押し進め、ある者は「収集」に夢中になり、ある者はそれら収集したものによる室内の「装飾」に熱中し、またある者は自らの「制作」に影響の痕跡を示した。つまり、ジャポニスムといっても、すでにいくつかの異なる道筋があったのである。そして、評価・収集・装飾・制作はたがいに絡み合いながら、それぞれ多少ちがう方向性を示していたと言える。

ここで、よく引用される二つの文献によって、ジャポニスムが始まった時期の状況を確認しておこう。

小説家エドモン・ド・ゴンクールは、1861年6月8日の日記に次のように記した。

「先日私は、ポルト・シノワーズで、羊毛のような弾力と柔らかさの、まるで布のような紙に印刷された日本のデッサンを買った。これほど驚異的で、奇抜で、これほど詩的な、称賛すべき芸術品を私は今まで見たことがなかった。羽毛の色のような繊細な色調、琺瑯(ほうろう)のような輝く色調なのである。夢から醒めたばかりといった風情の女たち、顔、装い、姿勢、それに、プリミティヴ派的な、アルブレヒト・デューラーにも勝る特徴を備えた、魅力あふれる素朴さ。」(高頭麻子・三宅京子訳)(2)

ちなみにポルト・シノワーズは、東洋の茶や骨董を売る店で、この頃から日本のものをも扱うようになっていた。ゴンクールが見つけたのは、浮世絵版画だったにちがいない。

また、詩人ボードレールは、同じ1861年の12月20日頃、次のような手紙を友人のウーセに送った。

「久しい前から私は、一包のジャポヌリーを受け取っています。それを男友達や女友達の間に分けてきたのですが、あなたには三点取りのけてあります。悪いものではありません
(江戸では一枚二文(スー)の、エピナル版画の日本版です)。網目紙(ベラン)に載せて竹もしくは朱色の竿縁(さおぶち)で縁取れば、見事な効果を発揮すること請合いです。」(阿部良雄訳)(3)

ここでいう「ジャポヌリー」とは、日本からもたらされた美術品のことで、当時「ジャポネズリー」とも呼ばれていた。ボードレールが見つけたものも、おそらく一種の浮世絵版画だったのだろう。彼は、日本の美術工芸品を扱う店としてポルト・シノワーズと並んで有名になりつつあったドゥゾワ夫人の店で、それらを買っていたらしい。

これら二つの文献以前のものには、西洋の芸術家が日本美術への強い関心を語ったものは見当たらない。これより5年前にあたる1856年に、ブラックモン、モネがそれぞれすでに浮世絵を「発見」していたとも言われるのだが、それらが文章にされたのはずっとのちのことであって、正確にその年の事であるのかどうか分からない。

ゴンクールとボードレールの記述は、西洋の市民たちの室内空間に日本の物や情報が取り込まれ、そこで敏感な反応を引き起こし始めていたことを示しており、ジャポニスムの開始を生き生きと物語っている。

だが、ジャポニスムをそのようなものとして考えるとき、ゴンクールやボードレールといった文学者の日記や手紙だけでなく、同じ時期のまったく無名の市民たちの文章に同様の記述があったとき、それもジャポニスムと言えることになる。そしてそうなると、そもそも日本の美術工芸品の輸出のすべてが、西洋の側に、かりに無名であっても受け手がいたわけなのだから、ジャポニスムだったことになるにちがいない。ジャポニスムは結局、近代の西洋人による日本文化への関心の総体だったことになる。

しかしそのようなジャポニスムの広範さを確認してもなお、マネ、ドガ、モネ、ゴーギャン、ゴッホなどへの「影響」についての議論が無効になるわけではないし、本書でも一方ではそれを中心的な主題にしている。彼らの作品は、たしかに氷山の一角にすぎない。しかし、それは言い換えると、それらが目に見えにくい現象を一挙に把握するための恰好の目印
(ランドマーク)になっていることをも意味している。わたしたちは逆に、印象派・ポスト印象派を考慮に入れずに、ジャポニスムという現象をイメージすることが難しいくらいである。ジャポニスムの研究においては、木を見て森を見ないことも、森を見て木を見ないことも、同じく歪んだ像を生じるにちがいない。

→続く

宮崎克己「ジャポニスムの開始」『空間のジャポニスム』第2章、 『アートの発見』碧空通信 2011/09/30
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(1)高階秀爾「ジャポニスムの諸問題」『ジャポニスム展 一九世紀西洋美術への日本の影響』カタログ(国立西洋美術館、1988年)











































(2)小山ブリジット『夢見た日本――エドモン・ド・ゴンクールと林忠正』高頭麻子・三宅京子訳、平凡社、2006年














(3)阿部良雄訳『ボードレール全集(4)』筑摩書房、1993年、書簡263 アルセーヌ・ウーセ宛、パリ1861年12月20日頃