空間のジャポニスム
 
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第2章

ジャポニスムの開始 (2)
   
 


美術品の貿易

1853年にアメリカのペリー提督が浦賀に上陸し、翌年には日米和親条約が締結され、さらに1858年にアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの五か国とのあいだで修好通商条約が締結された。この条約は翌1859年に発効したのだから、ゴンクールとボードレールがパリで浮世絵を「発見」した1861年という年は、貿易が本格化したほんの2年後だったことになる。

とはいえこの二人以前に、まさに開国の交渉と貿易の開始のために当然のことながら多くの西洋人が日本の地を踏んでおり、その中にこの国の美術に惹かれた者も少なくなかった。たとえば、1859年にイギリスの外交代表として来日し、やがて初代駐日公使になるオールコックは、その著書『大君の都』の中で絵画についても触れている。彼に言わせると、日本の画家は遠近法についての知識に乏しく、「空間の効果」にほとんど無頓着だが、人物や動物などを生き生きと写実的に描写することができるという
(4)。彼は滞日中に600点にものぼる美術工芸品を蒐集し、それらを1862年のロンドン万博に出品してかなりの反響を得た(このことについては、〈重ね〉の章でまた触れる)。このオールコックに限らず、その前後に日本を訪れた者たちのほとんどが、漆器・陶磁器などの工芸品を大量に土産物として買って帰っていた。

日本と西洋のあいだの正式な貿易が始まったのは1859年だったが、すでに1854年以降、フランスの貿易港ル・アーヴルで、中国と日本からの積荷が増えたという記録がある
(5)。モネは、16歳だった1856年にはじめて浮世絵を見て深く感動した、と晩年になって知人に語った(モネの友人で作家のミルボーもまた、このモネの回想を小説の中で使っている)(6)。この情報を鵜呑みにすることはできないのだが、モネは青年時代にル・アーヴルに暮していたのだから、そうした早い時期に日本の美術品を見たことはありえないことではない。

さらにそれ以前、ペリー来航直前の1852年に、のちにヴィクトリア・アルバート美術館となるロンドンの装飾美術館は、日本の漆工や陶磁器を購入していた
(7)

こうした日本からの美術工芸品が、どのような経路をたどってヨーロッパに輸入されたのかはよく分かっていない。一部はオランダ経由だったにちがいないが、また一部は日本が交易をしていた中国で西洋人が購入したものだったと考えられる。ペリー来航以後は、正式な貿易が始まっていなくても、水兵を含む多数の来日者がいたわけだから、土産物としての持ち帰り品も少なくなかったにちがいない。

それはさておき、修好条約発効以前の1850年代にはやくも日本から西洋にもたらされる物品が増加していたことは、単なる偶然ではなかっただろう。欧米列強はアヘン戦争のあと1840年代には中国に重要な拠点を築き、この国を西洋の言いなりにするのはもはや時間の問題と思われていた。そのような時期に、彼らほとんどの意識のうちに、極東における最後の魅力的な標的「日本」がたち現れ、先陣争いが始まったのである。19世紀前半のシーボルトなどの情報はあらためて脚光を浴び、政治・経済だけでなく日本の文化的産物にまで関心が高まった。ジャポニスムは、すでにその時に準備されていたと言える。

つまり、日本の開国のニュースがこの国への西洋人一般の好奇心を大いに刺激したというのは事柄の一面にすぎないのであり、逆に、日本への関心の高まりがある臨界点に達したときアメリカがペリーを派遣したというのが事柄のもう一面だったのである。

そして初期来日者が共通して見せた日本の美術工芸品への好奇心には、もちろん審美的・趣味的な面があったのはたしかだが、もっと直截的な、商業的な面もあったことを忘れてはならない。彼らは輸出好適品を探していたのである。

さてここで、開国直後における貿易の状況について概観しておこう。ジャポニスムという一種の社会現象は、あれだけの拡がりを見せたのだから、貿易統計にも反映していたことが期待されるにちがいない。しかし実は、残念ながらそれは私たちに多くを教えてくれない。その理由の第一は、この時期の統計が十分に精密でなかったことにあり、第二は、全体の中で美術品の占める割合が、金額としては意外なくらい少なかったことにある。

開国の直後から西洋・日本の双方は、何が主要な貿易品目になるのか模索を始め、はやくも2年後には、それ以後長く続く傾向の定着が見られる。すなわち1861年の横浜港における輸出額の上位4品目は、生糸
(183万ドル、全体の68%)、茶(45万ドル、17%)、銅(10万ドル、4%)、漆器(4万ドル、1%)となり、とりわけ生糸が突出していて、次に茶がめだっている(8)。これ以後しばらくの間、美術工芸品としては漆器とならんで、陶磁器・金属器などが顔を出すことがあるが、それぞれ全体の1%以下の額でしかない。要するに、金額として美術工芸品は大きくなかったし、その中で絵画・版画などは、微々たるものでしかなかったのである。

10年余りのちのことになるが、1872年の明治政府による輸出統計の中で、「扇子」「団扇」
(うちわ)「屏風」といった絵画的な要素を含むものが、はじめて品目として登場する(9)。この中で扇子と団扇は、金額として漆器のそれぞれ8分の1、10分の1でしかないが、数量としては扇子が約80万本、団扇が100万本にのぼっている。しかし一方、幕末・明治期を通して、「浮世絵」「版画」などという品目は貿易統計に一度も登場しないのである。

この事実を私たちはどう理解したらよいのだろうか。これをもって、浮世絵版画の西洋への流入が予想外に少なかったと言えるだろうか。ゴンクールとボードレールは、きわめて希少な浮世絵に対して敏感に反応したということだったのだろうか。

このことについては史料が不足していて正確なことは分からないのだが、しかしおそらく、浮世絵はかなり早い時期から少なからず西洋にはいっていたと考えられる。たとえば1867年の新聞に、ジャポニザンであった評論家アストリュックは、「デッサン画」がとりわけ画家・好事家の垂涎の的となっており、何千枚という単位で入荷し、中には海水で傷んだものもあったにもかかわらず、どれもたちまちのうちに売り切れた、と書いた
(10)。この「デッサン画」もまた、浮世絵版画のことと考えられる。

要するに、浮世絵版画というものが貿易統計に乗りにくい事情があったということである。たとえば扇や団扇について考えると、すり切れた中古品を喜んで買う者はいないのだから、大部分が新品だっただろう。しかし浮世絵
(錦絵・版本)は、かならずしも新品である必要はなく、日本で愛好家・骨董屋などのもとに堆積していた古いものも輸出されたはずである。扇子・団扇が「製品」として一定の価格・税額を決められていたのに対して、中古の浮世絵の価格は、あまりに確定しにくかったにちがいない。浮世絵は、陶磁器などの梱包の詰め物として西洋に送られたなどとよく語られるが、少なくとも通関時には無価値なものを装うことができただろう。

徳川幕府・明治政府にとっての輸出とは、日本の産業に直結するべきものだったのであり、浮世絵はもとより絵画・彫刻などがそれに該当するとはとうてい考えられなかった。美術工芸品の中で輸出向けに奨励するものとしては、すでに西洋でも評価の確立されていた漆器・陶磁器に、あらたにせいぜい銅製品などが加わっただけだった。

ジャポニスムという西洋における一種の社会現象を、もっとも大きな視野でとらえたとき、日本から欧米諸国へ、大量の美術工芸品が輸入されたことと見なすことができる。西洋という空間に、未知なる刺激物としてのモノが到来したのである。

そして西洋にもたらされた美術工芸品の大多数は、社会の公的な領域ではなく私的な領域、つまりブルジョワジーの住居というプライヴェートな空間へと入っていった。たしかに、各国の公的機関が日本の品々を自国の産業デザインのための作例などとして蒐集したことはあったが、近代において、日本の美術工芸品が西洋の宮殿・市役所・議事堂などの装飾に使われることはなかった。膨大な数の日本の美術工芸品が欧米に輸入されたのは、基本的には西洋の市民たちが欲したからであり、けっしてモネやゴッホなど芸術家が欲したからではなかった。この生活に密着した流行を、百年後の人間たちが、浮世絵からゴッホなどへの影響といったたぐいの美術史的な事柄としてもっぱらとらえることになるとは、当時の誰も思い及ばなかったにちがいない。

→続く

宮崎克己「ジャポニスムの開始」『空間のジャポニスム』第2章、 『アートの発見』碧空通信 2011/10/07
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前節(ジャポニスムとは)
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(4)オールコック『大君の都――幕末日本滞在記――』全3巻、山口光朔訳、岩波文庫、1962年、下巻177-182頁

(5)Deborah Johnson, The Impact of East Asian Art within Early Impressionist Circles, 1856-68, PhD.Thesis, Brown University, photocopy: Ann Arbor, Michigan (University Microfilms International), 1984, p.71.

(6)Marc Elder, À Giverny chez Claude Monet, Paris, 1924, pp.63-64, cited in: Geneviève Aiken, Marianne Delafond, La Collection d’estampes japonaises de Claude Monet à Giverny, Paris, 1983, p.31, no.9 ; Octave Mirbeau, La 628-E8, Paris, 1907, pp.206-210. ただしこの中でモネはオランダで浮世絵を見て入手したことになっている。

(7)ヴィダー・ハーレン「クリストファー・ドレッサーと日本礼賛」『クリストファー・ドレッサーと日本』郡山市立美術館など、 2002年。2008年の「日仏芸術交流の150年(シンポジウム)」において、ジュヌヴィエーヴ・ラカンブル氏は、開国以前の日本美術コレクションの状況について講演した(三浦篤編『日仏芸術交流の150年』三元社、2011年刊行予定)。






























(8) 『横浜市史』第二巻(石井孝「初期における貿易の伸張」)、1959年、371頁

(9)大蔵省租税寮『各開港場輸出入物品高表 明治五年自一月至十二月』(『大日本外国貿易年表』(雄松堂フィルム出版、マイクロフィルム、1964年)/宮崎克己「フランス絵画の到来 林忠正から松方幸次郎まで」『日仏芸術交流の150年』(註7)

(10)Zacharie Astruc, « L’Empire du Soleil levant », in L’Étendard, 27-28 February 1867.