空間のジャポニスム |
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第2章 ジャポニスムの開始 (3) |
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団扇のジャポニスム ジャポニスムについての概観的な話から転じ、思い切りズームインして、ここで団扇という一見取るに足りない日用品に注目してみよう。 絵画的なものの中で、貿易統計の品目として登場したのは浮世絵ではなく、扇子・団扇・屏風であった。かりに浮世絵が、すでに述べたように、貿易外のルートでかなり多く西洋にもたらされたのだとしても、扇子の80万本、団扇の100万本(1872年の統計)は数量的に、浮世絵を含む他の美術工芸品を圧倒していただろう。 このうち扇は、簡略な肉筆か版画によるものであり、一方の団扇は、大半が版画によるものだったと見られる。また屏風は、当然ほぼすべて肉筆だった。しかしながら、これらはいずれも日常の生活用品であり、特別な保管がなされないかぎり数年ないし十数年のうちに、色褪せたり損傷したりして廃棄されたにちがいない。浮世絵もまたしばしば室内の装飾に使われたのであり、そのようなものの大半は失われたことだろう。しかしそれでも大量に浮世絵をもつコレクターたちは紙挟みなどに入れて保管し、それらは結果としてこんにち欧米大都市の美術館の、数千点、数万点という浮世絵コレクションとして残った。しかし扇・団扇は、ていねいな保管がなされることが少なかったため、コレクションとしては現在きわめて希少である。 19世紀後半の西洋の画家たちが見ることのできた日本の画像とは、きわめて多くの場合、扇・団扇・屏風だったのであり、その大半が現在までに失われてしまったのである。とりわけ団扇は、竹骨に貼られたままのものはほとんど残っておらず、保管のため竹骨からわざわざ剥がしたもの、そして見本刷などがわずかに残っているにすぎない。それも江戸中期以前のものは稀であり、江戸末期の葛飾北斎、歌川国芳、歌川国貞(三代豊国)などによるものが残存しているのだが、それらわずかに残っているものの多くは絵画的にかなり優れたものである。 要するに、私たちはジャポニスムを考えるにあたって、途方もなく膨大な失われたものをも考慮に入れなくてはならないことになる。したがって、ある西洋の芸術家が参照したにちがいない日本の作品を、厳密に特定しようとする研究姿勢はあまり生産的ではない。むしろ、日本の二流三流のもの、安手の団扇においても頻繁に出現するような、造形の類型を問題にするべきなのである。 日本の扇や屏風は、すでに17世紀以来西洋に輸入され、ロココの時代にはフランスなどでもつくられていたが、竹と紙でつくられた団扇は西洋に類似のものがなく、しかもこの頃になって、あらたに日本から到来したのだった。これは江戸市民の生活に密着した廉価な商品であり、それゆえ、西洋19世紀の市民たちにとっても、流行としてのジャポニスムを身にまとうためのもっとも手軽な品だった。そして事実、最初期のジャポニスムにおいて、団扇は大変目につくモチーフなのである(扇と屏風については〈仕切り〉〈女性たちの空間〉の章でふたたび取り上げる)。 西洋絵画では1860年代以降、日本の美術工芸品が画中にたびたび登場する。その中で日本人にとってやや奇異に見えるのは、壁に貼られた団扇である。もっとも印象的なのは、1870年代のマネの《団扇の女》(a)、モネの《ラ・ジャポネーズ》(b)のようなものだが、すでに1860年代前半にホイスラーが《陶磁の国の姫君》(c)において1枚の団扇を壁に斜めに貼っている。ホイスラーは1860年代を通して、デッサンや水彩などで繰り返し、数枚の団扇を壁に散らした情景を描いており、彼が実際に自宅でそうしていたことは、当時の室内写真からも確認できる(11)。モネもまた日常的に壁に団扇を貼っていたらしいことが、ルノワールの《読書するモネ夫人》(クラーク・アート・インスティチュート)からもうかがわれる。ちなみに、1880年代以降では、ゴーギャン、シニャックらが団扇を壁に貼った情景を描いている。 おそらく日本においては、団扇をそのまま壁などに貼る習慣はなかった。しかし西洋では、日本の美術工芸品が出まわり始めた1860年代前半に、はやくもそのような使い方がされていたのである。しかも、ホイスラー、マネ、モネといった前衛たちの絵だけでなく、アカデミックな画家の作品や風俗版画などにまでほどなく見られるようになったのであり、多分それは各地で自然発生的に工夫され、定着したのだろう。 日本で団扇を壁に貼る習慣がなかったにせよ、この装飾法自体は日本からの影響であり、ジャポニスムだったと考えられる。ひとことで言うなら、それは日本の「扇面貼交(せんめんはりまぜ)」の西洋版だったにちがいない。 たとえば、開港直後の横浜に西洋人向けの遊廓としてつくられた岩亀楼(がんきろう)は、襖から天井まで、青地にくまなく扇面を散りばめた装飾の大広間を売り物にしており、しかもその室内の情景を描いた錦絵・団扇絵が、西洋人たちへの土産物として大量につくられた。そのようなもののうちの一枚(d)、赤い着物の女の背後の青い壁に扇が散りばめられた団扇絵は、色調や構図においてモネの《ラ・ジャポネーズ》に似てなくもない。 日本で壁に団扇が散らされることはなかったものの、団扇貼交は江戸時代の着物の意匠などとしてときおり見ることができる。ところで開国後早い時期のフランスの織物にも、団扇貼交をあしらったものがある(e)。ただしこれは、日本への輸出を前提にフランスのミュルーズでつくられたもので、もちろん日本の何らかの手本を見て制作されたと考えられる(12)。この種のものはやがてフランス国内でも室内装飾用に流通するようになるのだが、それはまさに壁に団扇を貼り交ぜたような体裁をなすのだから、やはり西洋における団扇貼交の契機となったかもしれない。 しかし、マネ《団扇の女》(a)の場合、日本の扇面貼交屏風(f)そのものが発想源になっていたにちがいない。このマネの絵では多数の団扇が、鶴などを描いた日本の織物に貼り付けられている。この絵は、モデルとなったニナ・ド・カリアスの家ではなく、マネのアトリエで描かれた(13)。団扇はここで、ピンによって仮留めされていたにすぎず、この背後の織物は、団扇なしで彼の少しあとの作品、《ナナ》《マラルメの肖像》にふたたび顔を出す。しかしこの《団扇の女》では、縦方向に帯状のものが見え、マネがそれを屏風に見せかけようとしたことをうかがわせる。西洋では日本の屏風は、しばしば完全に広げられ、壁に掛けられ装飾として使われたのである。西洋に、絵画的なものの上にほかの絵画的なものを載せる装飾法はなかったのだから、この発想は明らかに、日本の扇面貼交屏風から来たと考えられる。 このように「団扇のジャポニスム」は、ジャポニスムの開始の時期に日本の品が西洋の空間にどのように取り込まれたかを、私たちによく伝えてくれる。しかしそれだけでなく、このマネの《団扇の女》、あるいはその発想源となったと思われる扇面貼交屏風には、実は、本書で検討することになる六つの概念のすべてが集約的に現れるのであり、その意味で一層重要である。 扇面貼交屏風は、屏風すなわち「仕切り」そのものであり、紙の上に紙の扇を貼っているという意味で「重ね」であり、扇面によって典型的な「散らし」を実現しており、その散らされた扇面の向こうに風景が見えるという意味で「透かし」であり、また異なる位相の画像が合成されているという意味で「取り合わせ」であり、畳むことのできる屏風なのだから「畳み」である。 団扇は、たしかに廉価な玩物にすぎなかったのだが、西洋人の室内にはいって、不思議に空間を活性化させたと言える。左右対称で重層的な展示を原則とする西洋の室内に持ち込まれ、ほとんどアトランダムに散らされた団扇は、西洋人のインテリア感覚にも影響を及ぼした可能性がある(このことは〈西洋の空間〉の章でふたたび検討する)。 →続く 宮崎克己「ジャポニスムの開始」『空間のジャポニスム』第2章、『アートの発見』 碧空通信 2011/10/14 Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi 無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。 |
前節(美術品の貿易) 空間のジャポニスム・扉 アートの発見・トップ (a)マネ《団扇の女(ニナ・ド・カリアス)》1873-74年、オルセー美術館 (b)モネ《ラ・ジャポネーズ》1876年、ボストン美術館 (c)ホイスラー《陶磁の国の姫君》1863-64年:フリーア美術館 (11)American Magazine of Art 12 ( September 1921) (d)一川芳員《岩亀楼扇面之図》1861年(文久元年)神奈川県立博物館 (e)スタンバック=クークラン工房《布地の染色デザイン—団扇模様》1859-65年頃:ミュルーズ染色美術館 (12)ジャクリーヌ・ジャッケ「スタンバック=クークラン工房」(『ジャポニスム展』(1988年)カタログ、161頁)。またミュルーズにおける日本向け織物の生産については、次の文献にも述べられている。Lionel Lambourne, Japonisme: Échanges culturels entre le Japon et l’Occident, Phaidon, 2006, traduit de l’anglais, p.81. (13)A. Tabarant, Manet et ses Oeuvres, Paris, 1947, p.238. (f)俵屋宗達《扇面散貼付屏風》17世紀前半、個人蔵 |