アート都市/縦断(3)
 
アートの発見

 
宮崎克己のサイト

   
大震災の遺したもの(1)
   
   
エポックとしての関東大震災

1年半前の東日本大震災は、被害を被った当事者たちにとってはもちろんだが、この時代を生きる私たちにとって、そしてこの社会全体にとって、忘れることのできないひとつの節目となるだろう。この大地震の結果引き起こされた福島第一原発の事故は未曾有のものだが、大震災そのものは日本を何度となく襲ってきたものの再来である。東日本大震災についてあれやこれやと思ううちに、私には関東大震災がたいへん気になってきているのである。

1923年
(大正12年)9月1日に起こった関東大震災は、日本の社会・都市・文化やヴィジュアル・アートの分野でどのような節目をつくったのだろうか。この大震災をもっていかなる幕が降り、そのあといかなるステージが始まったのだろうか。それ以後に登場したもので現代の私たちにまで到っているものとして、どのようなものがあるのだろうか。

私たちに画像として関東大震災を伝えてくれるのは、おびただしい写真である。日本において写真は、すでに1904−05年の日露戦争の報道に利用されていた。ちなみにその時点ではまだ浮世絵がメディアとして生き残っていたのであり、日露戦争はまさにその交替の舞台となった→「浮世絵からマンガへ(2)」)

その後映画も登場したのだが、関東大震災のころにはいまだ黎明期にあり、手軽な撮影機材がなかったこともあって、その阿鼻叫喚を記録したものはきわめて少ない。写真にしても、35ミリフィルムのカメラがまだ製品化されておらず、けっして手軽といえるものではなかったのだが、それでも、『写真時報』『写真画報』『アラヒグラフ』などというグラフ誌が、おびただしい画像を残している。

そしてまた、それらに掲載された写真の一部は絵はがきにも転用され、これも多種類のものが多量につくられたので、郵便を通しても大震災のイメージは広まった
(a,b)。現代人の知る絵はがきからは想像のつかないことだが、死屍累々とした光景の正視に耐えない絵はがきも、少なからず印刷されていた(1)

記録や報道という使命を写真に奪われてしまった画家たちの中には、それでもほとんど本能的に生
(なま)の情景をけんめいに描こうとした者がいた。京都に住んでいた洋画家・鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)は、親しくしていた日本画家・池田遥邨を誘い、震災直後の東京にのりこんで来て、約一か月ものあいだ二人して廃墟の情景を描いてまわった。のちにそれが、鹿子木の《大正十二年九月一日》(c)と遥邨の《災禍の跡》に仕上がる。また、速水御舟は、上野で初日を迎えていた院展を見ていて地震にあい、目黒の自宅に歩いて帰る途中で写生帳を買い、瓦礫の中でスケッチを重ね、それをもとに《灰燼》を仕上げた。

震災によって被害を受けた画家たちは、おそらく震災を描いた画家たちよりもはるかに多かったにちがいない。一例に過ぎないが、湘南の鵠沼
(くげぬま)に住んでいた岸田劉生は、半壊した自宅から逃げ出し、名古屋の知人宅に身を寄せたのち、京都に2年あまり住むことになる。

ところで、大震災の情景を描いたにせよ描かなかったにせよ、これらの画家たちのそののちの絵画に、その体験がどれだけ影響したかを語るのは、実はたいへん難しい。彼らの絵はそれ以後大きく変わったのだろうか、それは芸術的な節目となったのだろうか。

たしかに、鹿子木孟郎の《大正十二年九月一日》は幅2メートルを超える大作であり、明治以後の日本の画家がつねに抱いていた「歴史画
(ヒストリー・ペインティング)」への願望に裏打ちされていて、第2次世界大戦中の戦争画を予感させる(2)。岸田劉生の場合、もっとも多産だった鵠沼時代が終わり、骨董趣味にひたる京都時代が始まったのであり、その環境の変化はいくぶんか彼の芸術に反映していると言えるだろう。しかしながら、彼らの絵を年代順に並べて見たとき、大震災の節目に気づく者は少ないにちがいない。大震災が彼らにとって何でもなかったはずはないのだが、それはあくまでも絵画の領域の外で起こり、フィルターを通して内にはいって来る刺激のひとつだった、と言うことができるだろう。

大震災をもって幕を閉じたもののひとつに草土社がある。岸田劉生が京都に去ったため、彼が主催していた画家の団体であった草土社は、事実上解散せざるをえなかった。そしてまた、劉生と人的にも芸術的にも密接だった白樺社もまた、大震災のため事実上解散した。倉庫に保管してあった雑誌『白樺』の最新号が倉庫とともに焼失し、それが引き金となって廃刊にいたったのである。

絵画よりも、それに関連する組織・制度・コレクションにおいて、大震災の影響は歴然としている。私は以前、西洋絵画の日本におけるコレクション史について書いたのだが
(3)、日本人による印象派・ポスト印象派やそれ以前の西洋古典絵画の購入は、第1次世界大戦が終った1918年と関東大震災が起こった1923年のあいだに極端に集中している。のちに国立西洋美術館の中核となった松方幸次郎のコレクション、大原美術館を建設した大原孫三郎のそれ、そして岸本吉左衛門、中澤彦吉、南條金雄、黒木三次、今村繁三、團琢磨、原善一郎、土田麦僊らのコレクションのほとんどが、この数年間に成立していた。しかしこの「泰西名画」の大ブームは、関東大震災をもって、またたくまに下火になったのである。この収集熱が一挙に冷めたのは、震災で一部のコレクターが直接打撃を受けたためもあったが、より重要な理由は、政府が巨額の歳入欠陥を埋めるために震災の翌年に制定した贅沢品税のためだった。これにより絵画の輸入に100%の税金がかけられるようになったのである。

日本における西洋絵画のコレクションは、その後、マチス、ルオー、ピカソなどといった、当時としての同時代美術へ大きく方向転換した。それはひとつには、それらが相対的に安く、税金をかけられてもまだがまんできると受けとめられたからと考えられる。

もちろん、日本のコレクターたちがそうしたモダン・アートへ大きく踏み出したのは、日本の文化が世界の同時代的潮流にいよいよ緊密になったからでもある。しかしここでさらにもうひとつ強調しておかなくてはならないのは、日本における住環境が、とりわけ関東大震災によって大きく変わったことである。

江戸・東京は、大震災以前から繰り返し地震と大火に襲われてきたのだが、江戸時代までは、それらによって建物の様式が一変することはなかった。しかし明治5年の銀座の大火によって、この地域にはそれまでまったくなかった煉瓦積構造の建物が軒を連ねるようになった。そして関東大震災は、建築の様式をさらに大きく変えたのである。東京横浜の半分が倒壊あるいは焼失したあとでできた住宅は、もちろん依然として日本式のものがほとんどだったが、それでも「文化住宅」と称して、入り口脇に洋間を設けるものが流行した。要するに、それまでの家には、床の間以外に壁というものがごくわずかしかなかったのだが、いまや壁というものが存在感をもち始め、そこに額にはいった絵画が必要になったのである。1923年以後、西洋の古典絵画などではなく、安手の油絵の需要が激増した。そしてその環境は、あきらかにモダン・アートを強く後押ししたのである。

大震災は絵画においてその領域の外のできごとだったが、建築においてはまさにその領域内のことだったのであり、建築はこのときあらたなエポックを迎えたのである。

→続く


宮崎克己「大震災の遺したもの(1)エポックとしての関東大震災ーアート都市/縦断(3)」『アートの発見』 碧空通信 2012/09/01
Copyright 2012 MIYAZAKI Katsumi
無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。

 



アート都市/縦断・扉

アートの発見・トップ





(a)「神田須田町焼跡の雑踏」(焼失した万世橋駅)
(絵はがき) 1923年 Coll.K.M.


(b)「折れた十二階」(焼け野原となった浅草、遠方に凌雲閣) (絵はがき) 1923年 Coll.K.M.

(1) 次の写真集に20点以上掲載されている。『絵はがきが語る関東大震災 石井敏夫コレクション』木村松夫・石井敏夫・編著、柘植書房、1990年。



(c)鹿子木孟郎《大正十二年九月一日》1924年、東京都現代美術館





(2) 鹿子木のこの作品については、次の研究がある。前田興「鹿子木孟郎から見た関東大震災」『大正イマジュリィ』第4号、2008年。



















(3) 宮崎克己『西洋絵画の到来』日本経済新聞出版社、2007年