アート都市/縦断(3)
 
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東京の色が変わった

かつての江戸の建物の外壁は、宗教建築を除くと原則として無彩色だった。幕末の1860年
(万延元年)にプロイセンの全権公使として来日したオイレンブルクの記録の中に、次のような一節がある。

「日本の街路の色合は単調である。黒灰色の屋根ばかりで、所々尖端に白い飾りのある屋根があり、さらに黒か白の漆喰の耐火性の家々がある。それ以外はみな木造で、削りたての樅
(もみ)のような明るい黄の自然色か、赤または黒みがかった茶色からいくらか風化した灰色までのニュアンスをつけて、かわるがわる現われる」(4)

要するに、建物、塀、橋など江戸の多くの建造物は、白色の漆喰、鼠色の瓦とナマコ壁、黄褐色ないし焦げ茶色の木材から成っていて、目立った色調がなかった。江戸城も、この時代の城郭のほとんどがそうだったように、白亜の壁と鼠色の瓦から成っていた。

一方で、江戸時代の寺社の多くが、日光東照宮ほど華美でないまでも、朱塗り柱や金色の破風飾りを見せていた。伊勢神宮のように、白木に徹する神社もあったが、大まかに言って日本では、聖/俗の極に彩色/無彩色がそれぞれ割り当てられていた。そしてもうひとつ、ハレ/ケにも同様に、彩色/無彩色が割り当てられていた。祭・儀式・芝居・相撲などの折りには、彩り豊かな幟
(のぼり)・幔幕(まんまく)・旗・飾り物などが街路を埋めつくしたのである。

したがって江戸の街は、けっしてオイレンブルクが形容したように「単調
(モノトーン)」だったのではなく、日常においてはあえて抑制された「単色(モノクローム)」を呈していたのである。

そのような街並みが、明治になって建築材料として西洋の煉瓦が急速に普及するとともに一変した。もっとも銀座煉瓦街のように、実際には煉瓦の上に漆喰を塗るケースもあり、見た目の煉瓦色化は、工場・倉庫・鉄道など産業面から進んでいった。鉄橋の煉瓦の橋脚の上を蒸気機関車の黒い塊が走るというように、煉瓦色には鉄の黒がしばしば結びつき、それがやがて明治前半の文明開化の色調となっていったのである。

明治の後半になると東京の経済・政治・交通・観光の中心の煉瓦化、煉瓦色化が加速した。浅草には1890年
(明治23年)、当時の国内最高層、12階の凌雲閣が立てられて評判になった(d)。丸の内の馬場先門通り・仲通りのビジネス街、霞が関・日比谷の司法省・警視庁などの官庁街が続々と煉瓦造になった。1912年に万年橋駅(e)、1914年(大正3年)に東京駅と、あいついで煉瓦造の巨大な駅舎が出現した。

もちろんいったん住宅街にはいれば、それ以前と同様の日本的な光景が展開していたにちがいない。しかし東京の中心部、都市としての顔は、急速に煉瓦色に変容していった。そしてそれに同調するように、あらたに登場した路面電車・自動車も、近隣の商業建築も、暖色系の強い色となっていき、東京の街は一時的に濃厚で彩度の高い色調におおわれたのである。

これ以後、西洋化・近代化の主調色として煉瓦色が意識されるようになった反動として、伝統的な日本文化を尊重する者たちは、ことさらに無彩色あるいは淡色へ寄っていったのではないか、と私は考える。もともと日本には、濃厚な彩色と無彩色の両方があり、しかも前者がモネ、ゴッホのようなモダン・アートに影響していたのだが、明治以後、煉瓦色を中心とした濃厚な色調は近代西洋に、無彩色・淡色は伝統の日本に割り当てられたのである。

関東大震災は、東京の色という点において、二度目の大転換をもたらした。とりわけ煉瓦造建築の被害の甚大さはめだつものだったのであり、煉瓦は建築素材として一挙に信用を失った。耐火・耐震を旨としてつくられた銀座煉瓦街はあえなく崩壊・焼失し、観光のシンボルだった凌雲閣も上層部が崩落した
(b, f)。コンドル設計の帝室博物館、日比谷の警視庁も大破もしくは全焼し、建造されて十年しか経っていなかった万世橋駅・新橋駅も焼け落ちた(a)

一方で煉瓦造建築でも、東京駅のように、鉄骨や鉄筋コンクリートを使って構造を強化していたものには、それほど被害がなかった。しかし煉瓦色は、東京の住人たちにとって、舞台がまわるように瞬時にレトロ化したのである。実は、1914年竣工の東京駅以後、すでに煉瓦造建築は流行を終えており、鉄筋コンクリート、鉄骨鉄筋コンクリート建築の時代が始まっていた。その象徴とも言うべきものが、東京駅のすぐ隣にあって1923年の関東大震災の折りにほぼ完成していた丸ビルである。

それではこの大震災以後、東京の色はどうなったのだろうか。同潤会アパート、いわゆる復興小学校
(g)、早稲田大学大隈講堂(h)、東京中央郵便局、銀座和光など、この震災後の代表的な建築を思い出してみると、淡い黄土色・草色、ベージュ、オフホワイトなど、たしかに色調にあるまとまりがあるのだが、いずれも彩度の低いあいまいな中間色であって、明治の煉瓦色に匹敵するようなインパクトのある主調色が登場したとは思えない。

こうした色調は全体として、20世紀前半に急激な成長をとげたニューヨークなど、アメリカの大都市のそれと似てなくもない。しかし、モダン・デザインの鋭利さが反映したニューヨークの摩天楼に比べたとき、東京の近代建築には柔らかさ、鈍さ、分厚さが顕著である。それは一つには、耐震性を考慮してガラスの面積が小さく、壁の面積が大きくなっていることによるのだろう。

しかしそれだけではない。西洋においてモダン・デザインの建築は、伝統的な歴史主義を否定する明確な意識のもとに出現した。しかし日本においてそれは、関東大震災という巨大な自然災害の結果として広まった。そもそもそれは「否定」ではなく、西洋で生まれたものの「受容」であり、いかに日本の風土に融合するかが最大の課題だった。こうして、ル・コルビュジエやミースの決然たる純白は、日本ではあいまいなクリーム色に変色されて受容されたのである。

室内の話になるが、1929年に開館したニューヨーク近代美術館の真っ白な展示室のようなものをしばしばホワイト・キューブと呼ぶが、日本の美術館の展示室は1980年頃までは純白ではなく、クリーム色だった。

このように見た目には、関東大震災を契機に、東京の色は煉瓦色から薄い褐色系に転換したようだった。しかし実のところそれは、主調色の転換だったのではなく、むしろ極性の消失と見るべきものだったのだろう。明治時代には、煉瓦色=西洋=近代、淡色=日本=伝統という極性が存在していた。一方、ル・コルビュジエらにおいては、無彩色=近代、彩色=伝統という極性が存在していた。ところが、1920・30年代の東京の建築において、前近代の「否定」を表現する純白ではなく、西洋と日本、過去と現在を融合するあいまいな淡い褐色が選ばれたのである。これは日本と西洋、モダンとプレ・モダンの「融合」の帰結だったと言えるだろう。

日本の近代文化は、「否定」ではなく、「融合」を発展のモーメントとしていた。これは近代に限らず、日本文化の特質であるのかもしれない。


→続く


宮崎克己「大震災の遺したもの(2) 東京の色が変わった− アート都市/縦断(3)」『アートの発見』 碧空通信 2013/01/02
Copyright 2013 MIYAZAKI Katsumi
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(4)『オイレンブルク日本遠征記(上・下)』中井晶夫訳 (新異国叢書13)、雄松堂出版、1969年、上巻75頁











(d)「浅草公園十二階」(凌雲閣)(絵はがき)1920年(消印) Coll.K.M.



(e)「須田町ヨリ万世橋駅ヲ望ム」(絵はがき)1910年代 Coll.K.M.














(f)「浅草公園十二階前焼跡」(凌雲閣)(絵はがき)1923年 Coll.K.M.


(g)旧小島小学校(現台東デザイナーズビレッジ)1928年(竣工)東京都台東区 (Photo:K.M.)


(h)早稲田大学大隈講堂、1927年(竣工) (Photo:K.M.)