アート都市/縦断(3)
 
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大震災の遺したもの(3)
   
   
復興のモニュメントあるいはスクラッチ・タイル

私が今回の大震災からの復興において気づいたことのひとつとして、日本人たちが以前よりも記憶を遺すことに敏感になったということがある。地震後の早い時期の新聞に、15年前の阪神淡路大震災のある被災者が、東北の人たちに向けて語る記事があった。その人はかつて、瓦礫となった自宅を前に茫然自失して何ひとつできなかったのだが、のちに、せめて一枚の写真でも見つけていたら良かったのにと思い、その後悔の念を今回の被災者たちに伝えようとしていた。ほとんど無からの復興であればなおさら、その人にとって過去の面影を宿すオブジェは、かりに他人にはまったくつまらぬものであっても、記憶の小舟をつなぎ留めるためにかけがえなのない繋船柱となる。

それにしても政府にせよ東京電力にせよ、原発事故に関する記録を遺そうとしなかった怠慢は、時代を越えて非難されるだろう。首相の発言や通信がきちんと残されていないのと同様に、事故直後に決死の覚悟で福島第一に突入していった者たちの写真や映像もほとんど残されていない。

このようなことを想像するのは不謹慎であるかもしれないが、福島原発そのものが、数十年かけて廃炉になったのち、負のモニュメントになり一種の文化財になるだろう。一方、大地震そのもののモニュメントとしては、たとえば「奇跡の一本松」がすでに大きく報道されている。陸中海岸国立公園の一部をなしていた陸前高田の松原の7万本の松の木の中で、唯一津波に流されなかったこの「一本松」は、塩水のため枯死してしまったがレプリカとして姿を遺すことになった。私にはこれが真にモニュメントとして定着するのかどうか、予想できない。いずれ松原そのものが完全に元の姿を取り戻したとき、この人造の木は、どのように見えるだろうか。

さて、関東大震災にふたたび話を戻すとして、東京・横浜の街並みの中でこの大地震の記憶を鮮明に喚起する、たとえば広島の原爆ドームや長崎の平和祈念像に匹敵するモニュメントは存在しない。わずかに、関東大震災の直後におこった大火によって3万8千人が死亡した陸軍被服廠跡にある、都立横網町公園の慰霊堂と復興記念館(i)がそれにあたるのだが、私たちの中にその建物の名前も外観のイメージも、ほとんど定着していないのである。

そもそも、人がモニュメントをつくって記憶しようとするのは、ほとんど人間の営為についてである。日本では英雄の非業の死を悼み、鎮魂のためしばしば神社という一種のモニュメントを建てるのだが、自然災害の死者はふつうそうしたものの対象にならない。西洋においてモニュメントは、鎮魂よりも偉業の顕彰のためにつくられることが多く、その場合人間臭さはいっそう強まる。自然の大変動の記録は山河そのものなのであって、人間がそれについてのモニュメントをつくることはない。

さて、いま自然の災害ではなく人間たちによる復興について考えるなら、関東大震災にも少なからぬモニュメントがあることに気づく。東日本大震災の年の秋に刊行された『復興建築の東京地図』
(5)は、それを要領よく展望させてくれる。震災後の10年間に、昭和通をはじめとする街路が大量に整備され、東京の道路総面積が一挙に50%増えたという。隅田川には永代橋、清洲橋(j)、駒形橋、言問橋などがあらたに架けられ、はじめての地下鉄が上野・浅草間に開通した。日本橋三越、島屋、新宿伊勢丹、銀座服部時計店(現和光)など商業建築も相次いで建てられた。要するに、現在の東京のランドマークと主要交通手段の多くが、関東大震災後の復興期に建造されたのだが、にもかかわらず私たちはそれらを大震災のモニュメントとしてほとんど意識しない。それはおそらく、1920・30年代の日本において、「復興」の流れが、より大きな「近代化」の流れの中に埋没してしまっているせいなのだろう。それらは明治以来の「近代化」のモニュメントでもあるのだ。

したがって、より狭い意味で「復興期の建築」としてつねに引き合いに出されるのは、比較的限られている。たとえば東京の主として東半分に点在する復興小学校
→前節gは、そのひとつの典型である。震災時に東京の小学校全体の6割にあたる117校が焼失し、復興期にそのすべてをコンクリートなどによるモダンなデザインで再建したのであり、現在でもそのうち20棟以上が残っている。これらも個々にはむしろ「近代化」の遺産として見えるにちがいないが、ある時期に突然出現したその数の多さとデザイン的な共通性に加え、そのデザインが木造2階建ての田舎の小学校という私たちのもつ懐かしいイメージの対極にあることもあって、総体として復興期のモニュメントとして私たちに受けとめうるものになっている。

同潤会アパートもまた、耐震耐火を考えぬいてつくられた典型的な復興期の住宅建築で、代官山、表参道をはじめとして当初十数軒つくられた。しかしこちらは、あいつぐ立て替えのため今日残るのは上野下のみとなり、それも今年中に取り壊されるという。

さて、私にとっていつの頃からか、1920・30年代の建物の外装にしばしば見られるスクラッチ・タイル
(k, l)が、関東大震災の記憶を呼び覚ます触媒になった。これはライトが大谷石とともに帝国ホテルの建材として使ったもので、完工したばかりのこの建築が関東大震災に遭ってほぼ無傷にすんだことから、スクラッチ・タイルが復興期の建築に多用されることになったのである。

スクラッチ・タイルを使ったこの時期の建物としては、総理大臣官邸、神奈川県庁、日比谷公会堂、さきほど触れた復興記念館など公的なものから、旧前田侯爵邸
(目黒区駒場)、銀座アパートメント(現奥野ビルディング)など私的なものまで、用途的にみても千差万別である。しかしその中でも私と縁の深い大学、博物館など文教系にひどく多いように思える。早稲田大学の大隈講堂→前節h、旧第一高等学校(現東京大学駒場キャンパス)の時計台、東京大学本郷キャンパスの諸建築(図書館、法文一・二号館など)のほか、一橋大学、学習院大学(k)、駒澤大学にもそれぞれ重要建築がある。国立科学博物館、学士会館(神田一ツ橋)、そしてこれらの総元締めの文部省(現文部科学省)もそうである。

スクラッチ・タイルは外装材なのだから、それ自体がモニュメントであるわけはない。しかし、こうして並べてみると東京の、とりわけ大学キャンパスのランドマークのかなり多くが、スクラッチ・タイルの外壁をもっていることに気づく。

今日では、多数の大学キャンパスが広域避難場所に指定されているが、関東大震災においてはそれらの多くがいったん壊滅していたということを、これによってうかがい知ることができる。そして復興期においてそれらの大学はいっせいに、キャンパスのなかで西洋の自己完結的・幾何学的な都市計画を実現しようとし、軸として一直線にのびる並木道を配したり、中心に西洋中世都市の市庁舎をほうふつとさせる高い時計台を設置したりした。

ここでもまた、「復興」は日本の「近代化」の背後に隠れてしまっているのはたしかだ。しかしスクラッチ・タイルというもの自体が、コンクリート壁よりはましだが、たとえば花崗岩の切石に比べると安手の代替品という印象を免れないものであり、震災後の10年間に大量に使われたあと急速に流行を終えた。そしてまさにそれゆえ、私にはこれら大学のランドマークが大震災からの復興のモニュメントとして受けとめられるのである。

関東大震災
(1923年)からの復興期には、治安維持法が成立し (1925年)、満州事変が勃発する(1931年)など、はやくも軍国主義への傾斜を見せていた。その時期に整備された多くの大学キャンパスの自己完結性は、政治的な自律への願望のあらわれのようにも見える。大学がどの程度までそれを確保しえたかには、おおいに疑問はあるのだが、ともあれ少し後の時代の、たとえば国会議事堂(1936年)や東京国立博物館本館(1937年)のようなウルトラ権威主義の建築の凝った細部に比べたとき、この素朴で陰りのあるスクラッチ・タイルには、困難な条件のもとで黙々と復興の道を踏みしめる者たちの仕事が感じられる。

→続く


宮崎克己「大震災の遺したもの(3) アート都市/縦断(3)」『アートの発見』 碧空通信 2013/03/22
Copyright 2013 MIYAZAKI Katsumi
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(i)東京都立横網町公園・復興記念館、1931年竣工
(撮影:K.M)











(5)『復興建築の東京地図 関東大震災後、帝都はどう変貌したか』(太陽の地図帖010)松葉一清・監修、平凡社、2011年11月




(j)清洲橋(東京)、1928年竣工 (1930年頃の絵はがき)
Coll. K.M. →記憶の中のランドマーク〜東京タワーは美しいか?(3)













(k)学習院大学西1号館のスクラッチ・タイル、1930年 (撮影: K.M.)


(l)学習院大学西1号館のスクラッチ・タイル、1930年 (撮影: K.M.)