細部に宿るもの(2)
 
アートの発見

 
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感知器としての犬
   
   
あらゆる動物は身の回りの状況に対して、各々のやりかたで敏感に反応する。その中で犬は、敏感なだけでなくそれを体全体で表現する点で、独特であるように思われる。犬好きの私は、その「表現力」を愛するが、猫好きはそれを大袈裟と感じるのだろう。


(a)シャルダン《食卓(ビュッフェ)》1728年、ルーヴル美術館

このような犬に、画中で決定的な役割を与えている数枚の絵がある。たとえばシャルダンの代表作の一枚、《食卓(ビュッフェ)》
(a)。ナチュール・ヴィヴァント(動物)である犬は、ナチュール・モルト(静物)を前にして、何に対して反応しているのだろうか。卓上を豪華に飾る桃、梨、牡蠣、レモン、ワイン、パンなどは、とりたてて犬の好物には思えない。しかし目を凝らすと、右上の白い布の掛かった水差しの把手の上に、紺色のオウムが止まっていることに気づく(a')。この鳥は背景に溶け込んでいて、見落としてしまいそうである。どうやら、ご馳走をねらっているのは犬ではなくこのオウムであり、それに向かって犬は威嚇の唸り声をあげているらしい。

ここで犬は、絵の中の空間にありながら見えないもの、見えにくいものを私たちに知らせてくれる「感知器」の役割を果たしているといえる。絵画では物音・振動・臭いなどを直接表現することができないのであり、この犬は、それらを間接的に伝達するべく絵画に埋め込まれた「感知器」なのである。


(b)ドラロッシュ《ロンドン塔の王子たち》1830年、ルーヴル美術館

ドラロッシュの《エドワードの息子たち》
(b)は、真に「怖い絵」である。一見したところ、立派な身なりのふたりの少年が、立派なベッドで就寝前に本を読んでいる、というごく平和な場面のようである。しかし、左下の犬は扉に向かって鋭く反応しており、その扉の下には一筋の光がさし、誰かがその外に立っている気配がする。そう、実は向かって右の少年は、幼きイギリス国王エドワード5世、左はその弟なのであり、ふたりは王位を奪うべく叔父が送った刺客にまさに殺される、運命の時を迎えようとしているのである。画家はおそらく、シェイクスピアの『リチャード3世』に触発されてこの題材を取り上げたのだが、犬という感知器を思いつかなかったら、ほかにどのようにしてこの緊迫した場面を絵画で表現しえただろう。

最後に、ゴヤの《砂に埋もれた犬》
(c)。犬の恐怖のまなざしの先に何があるのか、もはやわからない。ただしまちがいなくこの犬は、死を予感している。ベケットは、主人公が最初から最後まで地面に埋もれているあの『しあわせな日々』を構想したとき、この絵を思い出さなかっただろうか。しかし生きとし生ける物すべてに訪れる死を描くにあたって、ゴヤは人間をモチーフにする必要はなかった。彼は犬を選んだのである。


宮崎克己「感知器としての犬〜細部に宿るもの(2)」『アートの発見』 碧空通信 2011/09/09
Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi
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(a') (a)の部分










(c)ゴヤ《犬》1820-23年、プラード美術館