細部に宿るもの(6) |
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まなざしの詐術 |
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マネの絵の登場人物たちは皆、大きく見開いた目で強い視線を放つ。そしてそれにもかかわらず、その視線はしばしば不可解である。たとえば《草上の昼食》(a)の裸の女は、流し目を使って私たち(男ども)を誘惑しているのだろうか、それとも、誘惑されたと思ってニヤニヤしている私たちを横目で笑っているのだろうか。ここには私たちを落ち着かなくさせる仕掛けがある。 マネはこうした両義的な目の表現を、17世紀の画家たち、ベラスケスやハルスなどから学んだ。そして彼らは、16世紀末のカラヴァッジオから学んだと思われる。たとえばカラヴァッジオの《女占い師》(b)では、左の女が流し目を(この場合あきらかに秋波を)、右の若い男に送っており、男の方はおそらくそれを意識して、いくぶん視点がさだまらない。何か甘い物語が始まりそうに見える。 (b)カラヴァッジオ《女占い師》1596-97年頃、ルーヴル美術館 しかし真相はまったくそうではない。女は占い師であり、いま男の手を握って手相を見ているのだが、男が女の視線をまぶしく感じている間に、よく見ると(b’)、男の手から指輪を抜き取ろうとしている。要するに、私たち自身が、若い男と同様にこの女にだまされているのである。 カラヴァッジオのこのいかさま師の主題は、次の世代のなかでひろく流行した。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの《ダイヤのエースをもついかさま師》(c)は、そのもっとも有名な例だろう。ここで手玉に取られようとしているのは、やはり身なりのいい世間知らずの若い男(向かって右)である。この絵は聖書の放蕩息子の主題を反映しており、残り3人はそれぞれ賭博・酒・女を表していると言われている。左端の男がまさにいかさまを働いているのだが、まんなかにすわる女は、強い視線で男を見つめている。 (c)ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの《ダイヤのエースをもついかさま師》17世紀前半、ルーヴル美術館 この女の、ありえないくらい極端な横目は、何を意味しているのだろうか。この3人はおそらく共謀者なのだが、女は一体、合図を送っているのか、指図しているのか、それとも男がのろまなので憤然としているのか。この絵においても結局、不可解なものが残り、私たちは若い男と一緒に、眩惑されたまま置き去りにされるのである。 人間の目の機能が、近年の認知心理学で話題になっている。あらゆる動物、そしてあらゆる霊長類のなかで人間だけが横長の目をもっており、また黒目に対する白目の比率がきわめて大きい(1)。したがって猿を含めて一般の動物は、横目を使ったりはしない。一方、人間においては白目・黒目がはっきりしているため、他人にその視線の向きが明瞭に分かる。こうした人間の目の特異性は、高度のコミュニケーションの必要な人間社会の要請のためと考えられている。しかし伝達能力の進化は、同時に詐術の進化にもなったのである。 宮崎克己「まなざしの詐術 細部に宿るもの(6)」『アートの発見』 碧空通信 2011/10/28 Copyright 2011 MIYAZAKI Katsumi 無断転載を固くお断りします。引用の際は上記書誌データを明記してください。 |
細部に宿るもの・扉 前頁 次頁 アートの発見・トップ (a)マネ《草上の昼食》1863年、オルセー美術館 (b')カラヴァッジオ《女占い師》(b)の部分 (1)小林洋美・橋彌和秀「コミュニケーション装置としての目 “グルーミング”視線」(遠藤利彦編『読む目・読まれる目 視線理解の進化と発達の心理学』)東京大学出版会、2005年 |