細部に宿るもの(8)
 
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佐伯祐三〜建物のモノローグ
   
   
私は長いことゴッホの《オーヴェールの教会》(a)が、村はずれの分かれ道にぽつんと立つ人気のない教会を描いたものだと思っていた。実際に訪れてみると、オーヴェール=シュル=オワーズは村ではなく人口数千人の風格のある町であり、この教会はその中心部の丘の上に立つりっぱなゴシック教会だった(b)。しかもゴッホの絵でもよく見ると気づくように、教会のまわりを数軒の石造りの民家が取り囲んでいる。


(a) ファン・ゴッホ《オーヴェールの教会》1890年、オルセー美術館 (c)佐伯祐三《オーヴェールの教会》1924年、鳥取県立博物館

佐伯祐三は東京美術学校を卒業した翌年、1924年にパリに渡り、数か月後にオーヴェールのあるコレクターを訪れた際にこの絵を見せられ、強い感銘を受けた。彼はゴッホへのオマージュとして、ほぼ同じ地点に立って教会を描いた
(c)

佐伯は、あきらかに実景を見ていたはずなのに、ゴッホの底知れぬ寂寥感をさらに増幅させて、この教会を薄汚れて孤立した存在として描いた。そのため、その右隣に軒を接する数軒の家は抹消されてしまった。彼はもの言わぬこの建物を主役にすえて、それに語らせようとしているのである。


(d) 佐伯祐三《モランの寺》1928年、東京国立近代美術館

この4年後に描かれた佐伯最晩年の代表作《モランの寺》
(d)は、その探究の道の行き着いた地点を見せている。ここにおいてもまた周囲の家並みは消されているのだが、のみならず彼は現実の建物の形を大胆に改変してしまっている。

佐伯が実際にどのような教会の姿を見ていたかは、本人によるもう一点の《モランの寺》
(焼失)の図版や、同じときにイーゼルを並べて描いていた荻須高徳の絵からもある程度分かるのだが(1)、その前後の時期に撮影された2枚の写真 (絵はがき)によって明瞭に知ることができる。

そのうち1枚
(e)は佐伯の訪問のわずか数年後のものなのだが、これが本当に彼の描いた教会なのだろうかといぶかしくなるくらい、両者には大きな相違がある。しかしどうやら、丸い時計のある鐘楼の上半分を除くと、彼が実際に見た風景はまさにこれだったと推定されるのである。目障りな縞模様、二つの小屋根、小さな並木、そして周囲の建築物は思い切りよく捨象されてしまっている。

この絵の魅力のひとつは、禅僧の墨跡のような断固たる黒い輪郭線であるように思われる。それでは、あの印象的な烏帽子のような形の鐘楼の屋根も、捏造だったのだろうか。実は、この教会の鐘楼の上半分に限っては、1932年に大々的な修理がなされ、八角錐から四角錐に形が変更された
(2)。したがって佐伯が訪れたときには、20世紀初頭の絵はがき(f)に見える形をしていたと考えられる。建物のなかで彼が霊感を得、忠実に描いたほとんど唯一の部分に限って、のちに姿を変えてしまったのである。

佐伯はゴッホの孤立感を押し進め、それを孤立した建物に表象させようとした。建物を舞台に一人だけ立たせ、素顔を変えて自由に扮装させ、演技させることによって、自らの内面の代弁者にしたのである。


宮崎克己「佐伯祐三〜建物のモノローグ 細部に宿るもの(8)」『アートの発見』 碧空通信 2012/02/10
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(b) オーヴェール=シュル=オワーズの教会 (1906年消印の絵はがき) Coll.K.M.















(e) サン=ジェルマン=シュル=モランの教会 (1934年消印の絵はがき) Coll.K.M.


(f) サン=ジェルマン=レ=クイー(サン=ジェルマン=シュル=モラン)(1905年消印の絵はがき) Coll.K.M.




(1) 佐伯祐三の研究者、朝日晃は荻須高徳に同行を依頼して現地調査を行い、佐伯の《モランの寺》がサン=ジェルマン=シュル=モランの教会であることを確認した (朝日晃『佐伯祐三のパリ』大日本絵画、1994年、456頁)





(2) サン=ジェルマン=シュル=モラン町の公式サイトによる。http://www.saint-germain-sur-morin.org ちなみに絵はがき(f)に書かれているように、この町は、以前サン=ジェルマン=レ=クイー(Saint-Germain-les-Couilly)とも呼ばれていた。