細部に宿るもの(12)
 
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流れ下る風景〜日本的な愉悦
   
   
先日湯河原に行き、酒を一杯ひっかけたあと、谷を見下ろす露天風呂にはいった(a)。湯気とほろ酔いで朦朧とした気分になりつつ、わずかに残った脳の醒めた一隅で、まさに体験している日本的な愉悦について思いを巡らせた。時とともに移ろう山川草木に溶け込み、なかば無私にいたるというあの境地についてである。桜、紅葉などその季節ならではのものがあれば申し分ないが、そうでなくとも土地に高低差があり、水面か水流があればよい。露天風呂のブームというのは疑いなく近年のものであり、古来よりの日本の「風景」の現代的表現なのだと思う。

(b) 京都、修学院離宮、隣雲亭から浴龍池と岩倉の峰を望む (Photo: K.M. 2011)

京都の修学院離宮に、私は日本の「風景」のひとつの原型を見る。息を切らせながら山の中腹を登っていくと、そこに意外にも広大な池があり、そこからさらに少し登ったところに茶屋、すなわち隣雲亭がある
(b)。この庭は17世紀に後水尾院の指図のもとにつくられたものだが、どうやら最初に茶屋を設けたところその眼下に池が欲しくなって、急斜面をものともせずいく筋かの水流をせき止めてそれを造成したらしい(1)。池の向こうに岩倉、鞍馬などの峰々が遠望されるこの茶屋のあたりで、後水尾院は茶の湯を楽しみ、歌を詠み、登り窯で焼き物をつくらせ、酒宴を開いた。

日本絵画に遊びの情景がさかんに描かれるようになるのは、室町時代後期からである。《高雄観楓図》
(c)はその初期の代表的なもので、ここでもやはり、人々が茶、酒、音曲などに興じるかたわらに、紅葉そして水流がある。この絵は、風俗を観察しているというよりも、楽しさをその人たちの身になって描いているように思え、それゆえ魅力的である。

高みからの景色は、古今東西の人たちに好まれてきた。私は修学院離宮の風景に、どういうわけか18世紀イギリスのライト・オヴ・ダービーによる《夕映えのネミ湖》
(d)を思い出したのだが、いったん写真で比較してみて、むしろ東西の「風景」の相違に驚いた。産業革命の申し子とも呼ばれるライトの絵は、抒情的であるとともにきわめて明晰でリアルである。この作品を見ると、遠方までくっきりとピントがあっているのと同様に、この地点に立つ画家ないし自己の存在が、くっきりと感じ取れるように思える。

この絵が制作された同じ頃、スコットランドで「パノラマ」が考案された。これは円形の建物の内部に360度、都市や自然の風景を描き、中央に設置された台から観客にそれを眺めさせるように工夫した巨大な装置である
(e)。これはのちに文明開化の時代の日本にも西洋的リアリズムの極致を体験できるものとして導入され、人気を集めた。

乱暴に割り切ってしまうと、日本的な流れ下る風景においては、人がその中に融合することによって自己の相対化がもたらされるのに対して、西洋のパノラマ的風景においては、世界のなかの座標基軸である自己の意識化・絶対化がもたらされると言えるのではないだろうか。


宮崎克己「流れ下る風景〜日本的な愉悦 細部に宿るもの(12)」『アートの発見』 碧空通信 2012/03/30
Copyright 2012 MIYAZAKI Katsumi
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(a) 湯河原の旅館Kにて (Photo: K.M. 2012)


(c) 狩野秀頼《高雄観楓図屏風》(部分)16世紀、東京国立博物館術館

(1) 修学院離宮に関する近年の研究成果は、『國華』(1317号「修学院離宮特輯」、2005年7月)に見られる (熊倉功夫「後水尾院と修学院離宮」、小林忠「修学院図屏風」など)。


(d) ライト・オヴ・ダービー《夕映えのネミ湖》1790年頃、ルーヴル美術館


(e) ロバート・ミッチェル、レスター・スクウェアのパノラマ断面図、1801年、大英博物館