細部に宿るもの(10)
 
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ラファエルロ《小椅子の聖母》の空間を読む
   
   
直径70センチほどの円形画面のなかに三人の人物をおさめたこの作品(a)は、その構図と仕上げの巧みさゆえに、多くの美術史家たちによって「完全な傑作」と評されてきた(1)。絵の中心は画面上方のマリアとイエスの頭のあたりにあり、そこからいくつものカーヴが波紋のように周囲へ拡がっていって、外縁である円形へといたる。椅子を除くと、描かれているのは人物だけである。この絵の造形は一見単純なのだが、実は評者によってそのとらえ方は様々であり、むしろ各々が自らの造形分析の言葉を磨くための恰好の題材になってきたといえる。


(a)ラファエルロ《小椅子の聖母》1514年頃、フィレンツェ、ピッティ美術館

私には、ここでも「空間」が気になる。私の言う「空間」は、遠近法
(透視図法)など、2次元平面に3次元を表現する方法のことというより、絵画に表れた人と人、人と物の関係の網目の総体のことである(2)

この絵には、まるみを帯びた柔らかな身体がたがいに触れ合う独特の感覚、一種の身体感覚がある。マリアとイエスそれぞれの脚、腕、頭が入れ違いになり、密着しながら積み重なっていく。このような身体の表現を、ラファエルロは、当時評判を呼んでいたレオナルドの《聖アンナと聖母子》の素描
(a)から学んだと考えられる。ひるがえってみるに、日本人にはこうした身体のヴォリューム感覚や接触感覚が希薄であるように思える。一方西洋ではその後、まるみのあるものを積み重ねる描写は絵画の3次元表現の一手段となり、それはとりわけヌードを題材に探究され続け、ルーベンス、フラゴナール、ドラクロワ、ルノワール、セザンヌらの系譜をつくった、と私は考える。

マリアとイエスの視線もまた、独特の空間を生んでいる。イエスの斜め上を見つめるまなざしは、父なる神を見ているのか、自分の責務の重さを予感しているのか、厳かにして決然としている。私たちはこのイエスの顔を、やや下から見上げているように感じる。一方のマリアの眼は私たちの方に向いているのだが、ふしぎなことにこの部分だけを切り離して見ると、私たちは上からマリアを見下ろしているかのように感じる。これは「謙譲の聖母」として表現されているのである。神、イエス、マリア、私たちをつなぐこのような視線の連鎖も、一種の空間をつくっている。

画面右のマリアの左脚は、いくぶん不自然な高い位置に置かれている。従来の説明では、これは画面の円形に適合させるためとされるのだが、私はそうではなく、それは幼児の洗礼者ヨハネを至高の二人に対して奥へ引き下がらせるためのものと考える。このヨハネと反対側にあるまっすぐに立つ椅子の支柱もまた、円形に呼応してまるみを帯びているとしばしば説明されるが、私はこれも、私たち見る者と聖なる二人とのあいだの一種の仕切りとして機能していると考える。かぎりなく親しみやすいこの宗教画にも、そうした「仕切り」によるヒエラルキーの表現がそれとなく挿入されているのである。


宮崎克己「ラファエルロ《小椅子の聖母》の空間を読む 細部に宿るもの(10)」『アートの発見』 碧空通信 2012/03/02
Copyright 2012 MIYAZAKI Katsumi
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(1) この文章の契機となったのは、私がかつて学生時代に読んだ次の著作である。 E.H. Gombrich, Norm and form : Studies in the art of the Renaissance, London, 1966 (E・H・ゴンブリッチ『規範と形式――ルネサンス美術研究』第6章「ラファエッロの《椅子の聖母》」岡田温司・水野千依訳、中央公論美術出版、2009年)。


(2) 『空間のジャポニスム』(本ホームページ所収)、とりわけ第1章「空間の再定義」を参照されたい。












(b)レオナルド・ダ・ヴィンチ《聖アンナと聖母子のためのカルトン》1499年頃、ロンドン・ナショナル・ギャラリー